陳澧(読み)ちんれい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「陳澧」の意味・わかりやすい解説

陳澧
ちんれい
(1810―1882)

中国、清(しん)代末期の学者。字(あざな)は蘭甫(らんぽ)、号して東塾(とうじゅく)。広東(カントン)省番禺(ばんぐ)の人。初め詩作に腐心していたが、会試(進士の試験)に連続して七度応じて落第するに及んで、学問に専念した。学海堂阮元(げんげん)が1820年に創建した学舎)などの主講を務め、かたわら天文、地理、暦算、音韻(おんいん)、楽律など多方面にわたる著書60余種を残している。その学風は『漢儒通義』7巻、『東塾読書記』25巻によく伝えられていて、漢学のいわゆる実事求是(じつじきゅうぜ)を信奉して鄭玄(じょうげん)の学を尊重するが、同時に宋学(そうがく)のいわゆる経世致用(けいせいちよう)を重視して朱熹(しゅき)(朱子)の学問をも重んじる、という風であった。この不偏不党の態度はけだし、アヘン戦争以来の内憂外患の時代情況がもはや漢学・宋学の対立を許さなくなったことに由来しよう。『東塾集』6巻がある。

[宮内 保 2016年3月18日]

『趙爾巽他編『清史稿』536巻(1928・清史稿編纂館/標点本『二十四史』所収・1977・北京中華書局)』『張舜徽著『清人文集別録』24巻(初版・1963/再刊・1980・北京中華書局)』『『疇人伝・四編 巻八』』『汪宗衍編『陳東塾先生年譜』』

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改訂新版 世界大百科事典 「陳澧」の意味・わかりやすい解説

陳澧 (ちんれい)
Chén Lǐ
生没年:1810-82

中国,清代後半の学者。字は蘭甫,号は東塾。広東省番禺(ばんぐう)県の人。1840年(道光20),阮元創設にかかる学海堂学長に任ぜられたが,1852年(咸豊2),7度目の会試失敗の後は,学海堂での教育と学問に一生をささげ,晩年には菊坡精舎で《古経解彙刊》を編纂刊刻した。その学風は,漢学と宋学を折衷し,漢代学者も性命や義理を重んじており,また宋代学者も考証を重視していたとする。研究札記《東塾読書記》や《漢儒通義》などの著述が名高い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陳澧」の意味・わかりやすい解説

陳澧
ちんれい
Chen Li

[生]嘉慶15(1810)
[没]光緒8(1882)
中国,清の儒者。広東の人。字は蘭甫。東塾先生と称された。多年,学海堂の学長をつとめる。彼は朱子と鄭玄をともに尊重して,清朝における宋学 (朱子学) と漢学を折衷する立場を取った。それゆえその学風は独創性は少いが,堅実な安定感がある。著書としては『東塾読書記』が著名であるが,ほかに『漢儒通義』 (7巻) ,『切韻考』 (9巻) など。

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世界大百科事典(旧版)内の陳澧の言及

【反切】より

…ただし,小川環樹のように仏教文化の影響によるのではなく,道教の技術のなかから生じたとする者もある。陳澧(ちんれい)は,〈反切系聯法〉という反切研究法を案出した。彼にあっては,反切上字,反切下字を別個にとりあつかう傾向があったが,今日では反切上・下字の相互関係にも注意が払われている。…

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