陀寺(読み)ぎだじ

日本歴史地名大系 「陀寺」の解説

陀寺
ぎだじ

南北朝期から戦国期頃まで河内こうち吉野よしの郷に存在した曹洞宗寺院。跡地は現吉野谷村下吉野の乱塔田らんとうだ付近に比定され、国指定天然記念物の御仏供スギ(倒スギの別称をもち、高さ一八・七メートル、目通し七・六メートル)の所在地は旧寺地と伝えられる。「日本洞上聯灯録」に「加州獅子山祇陀寺」とみえ、延元年間(一三三六―四〇)大乗だいじよう(現金沢市)三世明峰素哲門下の祖継大智の開創とされる。大智は正応三年(一二九〇)肥後宇土うと長崎ながさき(現熊本県不知火町)に生れ、正和三年(一三一四)に入元している。なお文和三年(一三五四)一一月二二日の伊賀守某巻数返事案(祇陀寺文書)などに祇陀寺とみえ、幕府祈願所であったと思われる。また延文四年(一三五九)六月には、富樫用家禁制(同文書)が当寺に下されている。

当寺には、河内庄地頭結城氏(藤原氏)から盛んに所領の売寄進が行われており、貞和三年(一三四七)五月二日には同庄内椙森野すぎもりの(現鳥越村)半分を、同年七月二五日には同庄広瀬ひろせ村内瀬切野せぎの(現同上)を大智に売寄進している(「藤原重宗売券」「藤原重宗寄進状案」祇陀寺文書)

陀寺
ぎだじ

[現在地名]盛岡市大慈寺町

千手せんじゆ院の北東に隣接する。青竜山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺社修験本末支配之記(内史略)によれば報恩ほうおん寺末で、文政元年(一八一八)二人扶持となり、同九年五人扶持を加えられ、七人扶持となっている。盛岡藩二代藩主南部利直に仕え、慶長一九年(一六一四)の大坂冬の陣に従軍した女鹿丹後守信宗は、死去後青竜院祇陀居士といい、当寺の開基といわれる(盛岡砂子)。信宗は二戸郡女鹿めが(現一戸町)に葬られたというが、盛岡城築城後の寛永年間(一六二四―四四)報恩寺が曹洞宗の総録として陸奥三戸から盛岡に移った際、同寺から鳳庵存竜を開山として迎えたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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