阿努庄(読み)あぬのしよう

日本歴史地名大系 「阿努庄」の解説

阿努庄
あぬのしよう

氷見市を貫流する上庄かみしよう川流域を中心とした中世の庄園。その北限・西限は不明であるが、南限は十二町じゆうにちよう潟、東限はその潟から流れ出るみなと川であった。古代には射水いみず郡阿努郷に属したが、中世庄園としての成立事情と伝領概略については、永暦元年(一一六〇)三月日の前太政大臣家政所下文写(陽明文庫蔵兵範記紙背文書)により知られる。康平四年(一〇六一)末に越中権守となった源家賢(醍醐源氏源高明の子孫)の私領となった。家賢は後三条天皇母禎子内親王宮にかかわる人物である。家賢のあと一子に相伝したが、嘉保二年(一〇九五)以後長治二年(一一〇五)以前に家賢の養子、源憲俊と前大皇太后女房局の二人に分割伝領された。憲俊は白河院の寵臣である藤原国明(源俊明猶子)の外孫であり、母は白河院乳母である。前大皇太后女房局は国明の同母の妹で、白河院の皇后賢子の女房として若狭を称する。こうして阿努本庄が源憲俊に、相浦あいうら村が女房若狭に譲られた。次いで鳥羽院政期になると、阿努本庄は保延年間(一一三五―四一)に憲俊から摂関家出身の鳥羽上皇の皇后高陽院藤原泰子に寄進され、一方相浦村は若狭から越中守で摂関家の家司である藤原顕成の妻に譲られ、次に高陽院に寄進された。久寿二年(一一五五)一二月に高陽院が没したので忠実に伝えられたが、保元の乱後には両地ともに藤原忠通に伝えられた。後白河院政期の保元新制下では越中守藤原光隆により所当雑物が抑留されたので、藤原顕成がその不当を訴えている。忠通伝領地のうち、阿努庄を含む一群は嫡系の基実・基通と相伝され、近衛家領を形成した。建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)では、阿努庄は近衛家が庄務権をもつ六〇ヵ所のうちの一庄とされ、預所が置かれている。建武三年(一三三六)一一月二八日には北朝の光厳上皇院宣(海蔵院文書)により安堵された二五ヵ所の近衛家領に含まれている。また南北朝内乱期における近衛家の内紛を経た室町中期には、この二五ヵ所が忠仁公(藤原良房)以来の別相伝地とされ、近衛家にとっての「家門異他旧領」とされている(「後法興院記」応仁二年四月一〇日条)。だがそれ以前の永享五年(一四三三)には、庄務は奈良春日社の直務支配ではなく、幕府政所所司代伊勢氏を給主として行われ、京都仁和寺へ年貢五万疋が納入され、本家職をもつ春日社へはそのうちから都合六千五〇〇疋が社納されているだけである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報