長者町(読み)ちようじやまち

日本歴史地名大系 「長者町」の解説

長者町
ちようじやまち

[現在地名]岬町長者

寛文期(一六六一―七三)臼井うすい(臼井郷)北東部に形成された市町。北部は夷隅川が流れ、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。当地は柴胡さいこ(旧臼井の井沢地区に古柴胡の地名が残る)と称される芝地であったが、寛永六年(一六二九)より開発されたとも(「上総大多喜万木記録」石井家文書など)、同年に願出て翌七年より開発されたともいう(岬町史)。新開地は同一〇年に下畑一反余・新畑二町余が年貢の対象となり、長者町の名が付けられたとされる(南総珍)。しかし成立当時は柴胡町と称していたともいう。万治三年(一六六〇)の検地では畑七町五反余(岬町史)。この開発地に寛文元年臼井村より市立てが出願され、市立てをしても迷惑ではないとする周辺五三ヵ村からの請書が出され、一一月には検地・屋敷割が行われ、同二年九月九日に市祭が行われた(南総珍)。市立てを同三年とする説もあり(石井家文書)鎮守天神社勧請も両年に説が分れる。町割ではもとからの住民二二名の屋敷地の北側一六七間、南側二一〇間のうちから削られた七一間および八八間などの地域が利用され(大木家文書)、合せて北側三五一間に四六軒、南側三四七間に四九軒の屋敷割が行われた。

長者町
ちようじやまち

[現在地名]福山市長者町

福山城下の北西隅、武家屋敷地西にし町の外側に孤立して位置する町人町東西の通りを挟んで両側に発達。水野時代福山城下地図には通りの北側に町名が記され、南側には単に町家とあるが、安政時代福山城下地図では両側に町名がみえ、さらに南側の東に「長屋町」が生れている。

当町付近は水野氏が城下町を形成する以前は木之庄きのしようと称した地域で、当町はその中心であり、おそらく集落が発達、商工業に従事する町家もあったのであろう。

長者町
ちようじやまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目

上呉服かみごふく町通を東に折れたところにある東西に延びる町。北は板屋いたや町、南は一乗いちじよう町。慶長年間北庄四ツ割図によると家数二八で、町の南西部に知行一〇〇石の秋山久庵の屋敷があり、他町と比較して広い間口の町屋が多く、富有町人が住むための名か。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報