長柄村(読み)ながらむら

日本歴史地名大系 「長柄村」の解説

長柄村
ながらむら

[現在地名]天理市長柄町

兵庫ひようご村西方の環濠集落。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳城下東しきのしもひがし郷の中南なかみなみ庄に「巨勢寺田一町三反 十四条四里七坪九反 十五条四里十三坪四段」、延応元年(一二三九)の僧信縁田地流文(東大寺文書)に「堂田一反ナカラ、現願房所流也」(端裏書)、「在山辺郡南郷十三条五里卅一坪」、文永八年(一二七一)の玄仁避状(春日神社文書)に「合二段者字 柳原云、在大和国山辺郡南郷十三条四里十一坪」、西大寺田園目録に「山辺郡十四条五里卅二坪内二段字アサコ、大和里ニアリ」とみえ巨勢田こせだ柳原やなぎはら浅古あさごの小字は現存。

長柄村
ながらむら

[現在地名]高松町長柄町

高松村の東、内高松うちたかまつ不湖の北に位置する。加賀・能登の国境で、北は能登国羽咋はくい中沼なかぬま村。現在、高松に所在する真宗大谷派の真証しんしよう寺は、鳥越弘願とりごえぐがん(現津幡町)の明勝が天文元年(一五三二)に隠居して当地に創建したのが起源で、天正一二年(一五八四)の末森合戦で焼失、同一五年高松へ移転したといわれる(貞享二年寺社由緒書上・高松町史)。また現在、金沢市笠市かさいち町に所在する恵光えこう寺も同じく明勝(明善とする説もある)が、天文一〇年に当地に創建し、寛永三年(一六二六)に金沢へ移ったとされ(前掲寺社由緒書上・寺院明細帳・高松町史)、当地は中世末期に二ヵ寺をかかえる相当規模の集落であったと想像される。

長柄村
ながえむら

[現在地名]葉山町長柄

東は二子ふたご(二〇七・九メートル)、南から西にかけては仙元せんげん山など四方を山に囲まれ、これらの山を隔てて東は沼間ぬまま村・桜山さくらやま村飛地(現逗子市)、西と南は堀内ほりのうち村、北は桜山村(現逗子市)。中央を西流する森戸もりと流域にわずかに平坦部がある。山稼が中心で「木売り長柄」の称がある。

古くは長江につくる。鎌倉時代後期の年未詳三月二五日の益性法親王書状(県史二)に「下法師事、平塚宿よりハまいらせ候也、自長江夫等可請取候」とみえる。

長柄村
ながらむら

[現在地名]鳥取市長柄

湯谷ゆだに村の西、湖山こやま川上流(長柄川)流域にある。寛永一〇年(一六三三)岡島五郎右衛門宛池田光仲知行方目録(県立博物館蔵)によれば「長柄村内」二一石余が給所として与えられている。当村を流れる湖山川の流路は正保国絵図作成以降変わり、元禄国絵図作成の際川筋が訂正された(元禄一四年「変地其外相改目録」同館蔵)。拝領高二八九石余。岡島・黒部・石河・渡瀬各氏の給地があった(給人所付帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報