鍛冶村(読み)かじむら

日本歴史地名大系 「鍛冶村」の解説

鍛冶村
かじむら

[現在地名]貝塚市加治かじ加神かしん二丁目・しん町・脇浜わきはま一丁目・畠中はたけなか一―二丁目

近木こぎ川右岸、神前こうざき村東の日根郡の村で、同村と集落が続いている。加治とも書く。江戸時代後期には町場が形成され、加治新かじしん町といった。村名については鍛冶集団の居住によるとも、西宮にしのみや(現兵庫県西宮市)嘉治穂かじほ神社を勧請して梶帆神社として祀ったのが村名になったとも伝える(大阪府全志)

鍛冶村
かじむら

[現在地名]函館市鍛冶一―二丁目・東山ひがしやま一―三丁目・本通ほんどおり一―四丁目・陣川町じんかわちよう

近世から明治三五年(一九〇二)までの村。亀田川中流域東岸にある。近世は東在の村で、古くは鍛冶屋かじや村と称した。天保郷帳に鍛冶村とみえる。「新羅之記録」によると、一五世紀中頃「志濃里之鍛冶屋村」に家数一〇〇戸があり、康正二年(一四五六)同村の鍛冶と注文主のアイヌ乙孩との争いが発端でアイヌとの戦いが継続的に続いたという。「鍛冶屋村」を当村とする説がある(函館市史)。天正年中(一五七三―九二)中頃津軽地方から移住が始まったという(各村創立聞取書)

鍛冶村
かじむら

[現在地名]上郡村岩木いわき

倉尾くらお村の南東、千種ちくさ川に岩木川が合流する地に位置する。慶長国絵図には「いわきかちや村」とみえる。昔は鍛冶千軒かじせんげんとよばれたという口承がある。天正一五年(一五八七)宇喜多秀家領の時、「岩木」は間嶋氏に知行地として宛行われていた(那波家文書)。慶長八年(一六〇三)に「かちや村」の高三〇六石余が池田輝政から家臣高木長兵衛に宛行われている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)

鍛冶村
かじむら

[現在地名]大宮市宮原町みやはらちよう

別所べつしよ村の南に位置し、大宮台地上に立地する。西はさかさ川を挟んで奈良瀬戸ならせど村、東は中山道を境に加茂宮かものみや村。加治村とも書いた(寛文五年上尾宿助馬調「絵図面村々高」田中家文書)。村名は往古鍛冶が居住したことによると伝え、村内に金山かなやま権現社がある。大谷おおや領に属した(風土記稿)。田園簿では田三四石余・畑三一石余、旗本柴田領。同氏は元禄一一年(一六九八)丹波国へ知行替となり(寛政重修諸家譜)、このとき当村も上知されたと思われる。以後幕末まで幕府領であった(寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)

鍛冶村
かじむら

[現在地名]福光町鍛冶

宗守むねもり村の南にある。元和七年(一六二一)から大浦次良左衛門という者が山田野やまだので鍛冶職を営み、寛永六年(一六二九)に草高一〇石余を開墾、村立てを願出て成立したという(「大浦家由緒書」大能家文書)正保郷帳には山田鍛冶村とみえ、宗守村に一括されて高付されている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では鍛冶新村とあり、草高二九石、免三ツ。

鍛冶村
かじむら

[現在地名]小松市つる島町しままち

かけはし川河口近く、東は鶴ヶ島村、西は安宅あたか町。梯川河口が波浪により土砂を堆積すると、川が氾濫して水害を被った。戦国時代の落武者勘定かんじよう村に土着し、鍛冶を業としていたが、のちに鶴ヶ島村の西に移住して開拓した村で、享和(一八〇一―〇四)頃まで新田といわれたという(小松市史)。正保郷帳では高三五石余、田方一町九反余・畑方一反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一〇四石、免三ツ六分、小物成は板船櫂役一〇匁(うち五匁出来)、葭役一〇一匁(三箇国高物成帳)

鍛冶村
かじむら

[現在地名]豊川市中条ちゆうじよう

「牛久保町誌」によると、古くは一色いつしき村といい、永正二年(一五〇五)に鍛冶村と改称したとある。寛正五年(一四六四)もり昌林しようりん寺蔵鐘銘に「三河国宝飯郡中条郷北鍛冶村社頭鐘銘」とあるから、その頃は北と南に分れていたらしい。「三河国二葉松」には鍛冶村古屋敷として真木越中守定善・同善兵衛の居住を伝える。

村域内金山彦かなやまひこ神社は、三河国内神名帳に「従五位上 加知天神 坐宝飯郡」とある社と考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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