鉄炮町(読み)てつぽうちよう

日本歴史地名大系 「鉄炮町」の解説

鉄炮町
てつぽうちよう

[現在地名]中央区日本橋本町にほんばしほんちよう三―四丁目

大伝馬塩おおでんましお町の南にあり、西は大横おおよこ町を挟んで本石ほんごく町四丁目、南は大伝馬町一丁目。本石町通の東西に続く両側町。国役町。徳川家康が関東入部後まもなく御用鉄砲鍛冶頭胝宗八郎に与え、配下の鉄砲師とともに住まわせた(「御府内備考」・安永三年小間附町鑑)往古は千代田村の内にあって、町名家康の命名によるという(新編江戸志)。寛永江戸図に「てつはう丁」とある。安永三年小間附町鑑によれば小間一一五間(京間一一五間・田舎間四間)古来より無役で町屋取立ての由緒から「国役金御鉄砲師共請取来、公役金相勤不申候」とある。名主は草創名主胝宗八郎(宝暦七年万世町鑑)、拾蔵(前掲小間附町鑑)、高部久右衛門(弘化二年泰平町鑑など)と変遷。

鉄炮町
てつぽうちよう

[現在地名]水戸市いずみ町一丁目・かね町一丁目・五軒ごけん町一丁目

紀州きしゆう堀の西に沿い、泉町の東端から上金かみかね町の東端に至る長さ二町四六間の片側町。新町ともいう。

水府地名考」に「この地の開けしは久敷事なるへし鉄炮師の徒輩仕出し元和の比なれハ其頃より此所に住せしめし事なるへし」とあり、初めは諸士の居住地で「元禄、宝永の境ひ(中略)此小路には松延忠衛門なる人炮術家也 御鉄炮師桑屋善兵衛并金具師、台師等」(水府地理温故録)などが住んでいたが、元禄(一六八八―一七〇四)頃からは町屋敷となった。

鉄炮町
てつぽうまち

[現在地名]富山市安野屋町やすのやちよう二丁目・鹿島町かしまちよう一―二丁目

富山城の西、七間しちけん町の西端を南に折れて御用屋敷ごようやしきへ向かう南北の道の西側の町並。東側は富山城の濠に面し、濠の水は助作すけさく川となって神通川に注いだ。北陸街道(巡見使道)が通る。鉄砲者の居屋敷を置いたところから生じた町名で鉄砲町とも記す。散地のうち。安永八年(一七七九)の本家数三一・貸家数二一で、三丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)

鉄炮町
てつぽうちよう

[現在地名]結城市結城 西の宮にしのみや

西宮にしのみや町の北に位置し、紺屋こんや町の東へ突出た町。御朱印ごしゆいん堀の内と外にまたがっており、紺屋町から分離したと想定される。小塙こばな町近くに鉄炮宿てつぽうじゆくがあるが、関係不明。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によると町中間数は四〇間で、小袋こぶくろ町・鍛冶かじ町に次いで小さな町。

鉄炮町
てつぽうまち

[現在地名]川越市松江町まつえちよう

松郷まつごうの地に成立した町人町志義しぎ町の一筋南の東西の通りで松郷新道まつごうしんみちともいう。「川越索麪」によれば、松平伊豆守に召抱えられた近江国国友くにとも(現滋賀県長浜市)の鉄砲師国友佐五右衛門は当初上松江町と南久保みなみくぼ町の角に屋敷を与えられ、柳沢吉保の時代にその西隣の御茶園として使用されていた土地を与えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報