音楽教育者。名古屋商業学校を卒業後,1921年から28年までベルリンに留学,バイオリンをK.クリングラーに学ぶ。帰国後,独奏者,室内楽奏者として活動ののち,35年に東京でバイオリンの才能教育に着手した。〈才能は平等。教育のやり方で誰でも伸びるようになる〉と確信したためという。46年松本市に本拠を移し,本格的にバイオリンの才能教育に取り組む。48年才能教育研究会設立。門下から豊田耕児,小林武史,小林健次らの俊秀が出たため,世間の注目を集め,全国各地に支部が設立され,ブーム現象をひきおこした。《才能教育》(1948),《歩いてきた道》(1960)などの著書があり,その理念と教育システムは,〈スズキ・メソッド〉として,アメリカ,カナダをはじめ,世界各地で普及しはじめている。
執筆者:岩井 宏之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
バイオリン奏者、教育者。名古屋生まれ。商業学校卒業後、父の経営するバイオリン工場に勤めたが、バイオリンを安藤こうに学んだのち、1920~28年(大正9~昭和3)にはベルリンでクリングラーに師事。帰国後、独奏者、室内楽奏者として活躍したが、彼の名は、第二次世界大戦後の46年(昭和21)から松本で始めた才能教育運動によって知られる。最初「全国幼児教育同志会」として出発したが、48年「才能教育研究会」と改め、バイオリン名曲を教材とした教則本による独自のシステムは、64年の子供たちとの訪米演奏旅行により「鈴木メソッド」として世界的に知られるに至った。53年にはA・モギレフスキーとともに帝国音楽学校を設立、校長を務めた。
[川口明子]
『『幼児の才能教育』(1969・明治図書出版)』
…第2次大戦以後,演奏,製作技術は急速な進歩を遂げ,バイオリンが衰退しつつあるヨーロッパに代わって,世界各国で独奏家としてまた交響楽団の一員として活躍する日本人演奏家が増大している。鈴木鎮一のバイオリン早期才能教育は海外でも注目を集め,とくにアメリカのいくつかの大学や音楽学校で実践されている。また製作面でも水準の高い楽器がアメリカなどに輸出されるようになった。…
※「鈴木鎮一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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