金枝村(読み)かなえだむら

日本歴史地名大系 「金枝村」の解説

金枝村
かなえだむら

[現在地名]喜連川町金枝

和田わだ村の南東川流域に立地し、左岸本村。左岸丘陵西側面を走る街道(現主要地方道矢板―烏山線)に沿って街村状集落をなす。また喜連川町からの道(現県道喜連川―蛭田線)が東西に通り、通称「金枝十文字(辻)」で交差する。右岸の字上金枝は奥州街道に接した。「那須記」右大将那須御狩之事に、かねて用命を受けた那須光資が国触れするなかに「金枝」の地名がある。南北朝時代、那須資藤の四男隆経がこの地を分知され、金枝備中守を称したと伝える。字裏山うらやま本丸・二の丸を有する二町余の平山城跡があり、金枝氏の築城という。二重の空堀や土塁などの遺構もある。同書には、天文一八年(一五四九)の喜連川五月女坂(早乙女坂)合戦に金枝近江介、永禄一〇年(一五六七)烏山・大崖山合戦に須藤金枝近江守など下那須宿老格の名が散見する。

金枝村
かなえだむら

[現在地名]塩谷町金枝

田所たどころ村の西、あら川右岸に位置し、中央部を高野こうや堀が南流する。今宮祭祀録(西導寺蔵)によると、金枝村は今宮いまみや神社(現氏家町)に社家役として廻楼西分の二間を勤め、御屋形様の供役を勤めた。また応永一六年(一四〇九)より天正一〇年(一五八二)にかけて金枝郷の神長氏が、祭礼頭役を度々勤めている。宇都宮氏旧臣姓名書には、金枝村の植木八左衛門がみえる。植木氏は堀ノ内に居館を構え当地を開発、宇都宮氏改易後帰農し里正になったという。慶安郷帳では高二四七石余、田方九七石余・畑方一五〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報