金井村(読み)かないむら

日本歴史地名大系 「金井村」の解説

金井村
かないむら

[現在地名]新田町金井

大間々おおまま扇状地藪塚やぶづか面の扇端部に位置し、井戸窪いどくぼや金井の出水ですいなどの自然湧水がある。東は市野井いちのい村、北は嘉祢かね村、西は大根おおね村、南は上江田かみえだ村。南北に銅山あかがね街道が通り、集落は街道に沿って長くのびる。弘安元年(一二七八)一〇月三日の岩松経兼譲状写(正木文書)に先祖相伝の所領の一つとして「金井村」がみえ、惣領政経へと譲られている。その後も岩松家に相伝されたらしく、応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(同文書)には「金井村村田郷内」とみえている。経兼の兄弟長義は金井氏を名乗っている。一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には金井郷、同時期と推定される新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(同文書)には岩松方として「上村田郷 金井村」があげられている。なお応永一〇年九月日の村田郷地検目録(同文書)には「金井道場分」の田一町二反(うち不作八反・見作二反)と畠が記される。

金井村
かないむら

[現在地名]港南区日野ひの町・日野南ひのみなみ一―三丁目

東はみや宮下みやした雑色ぞうしきの三村、南から西は相模国鎌倉郡鍛冶かじ村・中野なかの(現戸塚区)、西は鎌倉郡上野庭かみのば村・下野庭村、北は吉原よしわら村・下野庭村。北・西の山は武相国境で、七里堀しちりぼりと称する古道が、金井村から吉原・松本まつもと久保くぼ最戸さいど別所べつしよ中里なかざと(現南区)の六ヵ村の村境を通る。大岡おおか川支流の日野川は宮ヶ谷村から村内を流れて吉原村に至る。小田原衆所領役帳には「日野」とあり、「風土記稿」は日野郷の分村経緯を記す(→宮下村正保国絵図には日野金井村と記す。

近世は寛文二年(一六六二)から九年までの久世(のち下総関宿藩)領を除き幕府直轄領。元禄一〇年(一六九七)以後旗本久世領となる。

金井村
かないむら

[現在地名]戸塚区金井町

東は飯島いいじま村、南は田谷たや村、西は小雀こすずめ村、北は原宿はらじゆく村・戸塚とづか宿に接する。西北に山王さんのう台があり、西方西阪にしさか山に連なり北方へ延びる。東に柏尾かしお川、南に関谷せきや川が流れ、岩崎いわざき堀は小雀村から中央の字大黒面だいこくめんに流れる。せき堀は柏尾川から分水して中央の字家下いえしたに流れる。居村いむら堀は西北の字西谷にしやとに発し、中央で堰堀に合流する。五反田ごたんだ堀は南方の字柳町やなぎまちに起こり字亀甲山かめのこやまで関谷川に落ちる。

正和三年(一三一四)七月一三日の関東御教書(県史二)に「鶴岡八幡宮領相模国長尾郷田屋・金目両村」とみえる金目村は当村にあたる。

金井村
かないむら

[現在地名]渋川市金井

渋川村の北にあり、吾妻あがつま川右岸に位置する。三国街道の宿駅で、現在も間口一〇間を標準とした地割が残る。「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方三七五石余・畑方六〇一石余。元禄郷帳では幕府領。天保九年(一八三八)の宿明細帳(都丸文書)によると本田九八九石余・一一一町八反余、うち田方二三〇石余・一九町三反余、畑方七五九石余・九二町四反余。新田二五八石余・六四町三反余、うち田方一石余・一反余、畑方二五七石余・六四町一反余。家数一七三・人数六三九、馬六一。安政二年(一八五五)には幕府領で、家数一八一・人数六九四、馬五六。

金井村
かないむら

[現在地名]藤岡市金井

あゆ川が村央を北流し、東は東平井ひがしひらい村・三本木さんぼぎ村、西は多胡たご下日野しもひの村、南は高山たかやま村、北は西平井村と多胡郡多比良たいら(現多野郡吉井町)と接する。日野三ヵ村の一つ。下日野村の当村と接する字鈩沢たたらざわたたら遺跡があり、「上野国風土記」にも鉄が採掘され、刃物にして最上とあるように、村名はこれらの製鉄にちなむ。字中原なかはらには上野国分寺(現群馬郡群馬町)の瓦を焼いた瓦窯跡があり、国・寺・当などの文字瓦が出土している。

金井村
かないむら

[現在地名]町田市金井町・金井一丁目・同四―八丁目・玉川学園たまがわがくえん五―六丁目・薬師台やくしだい・金井

南と西は本町田ほんまちだ村、北は野津田のづた村・大蔵おおくら村。もと金井村と木倉きくら村の二村であったが、寛文年間(一六六一―七三)以前に一村になったという(天保一四年「記録」神蔵家文書)。金井川流域の金井本谷ツかないほんやつ長谷ツながやつ、木倉本谷ツ・栗ヶ谷ツくりがやつなどの谷戸地名が残る。金井本谷ツに金井八幡神社があり、神宮寺金井山弘福こうふく(現廃寺)は、寺伝では文永一一年(一二七四)八月亮盛が創建し、応永九年(一四〇二)三月尊秀が再興したという(郡村誌)

金井村
かないむら

[現在地名]甘楽町金井、多野たの吉井よしい長根ながね

東境を天引あまびき川が北流、北西境から北境を白倉しらくら川が北東流し、東は多胡たご郡長根村(現吉井町)、北は造石つくりいし村と接する。村央を下仁田しもにた道が東西に抜ける。近世はおおむね小幡藩領。寛永一四年(一六三七)の検地帳(甘楽町公民館蔵)によると田二四町一反一畝余・畑二八町三反二畝余・屋敷二町七反六畝余。寛政五年(一七九三)の領内村々石高等調(松浦文書)では新田二畝余・新畑四町四反二畝余があり、本田と合せて米一七五石余・永六九貫文余を納めた。

金井村
かないむら

[現在地名]都留市金井

桂川支流の東流する大幡おおはた川北岸の山裾の平坦地に位置する。対岸は薄原すすきはら村。「甲斐国志」によると、村名の由来は桂林けいりん寺の後ろに古い井戸があったことから叶井とされ、寛文(一六六一―七三)検地の際にも叶井と記されたという。享禄年間(一五二八―三二)まで小山田氏がこの地に居住して、中津森殿と称した。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に村名はみえず、同控に載る中津森なかつもり村のうちに含まれ、寛文九年の検地によって公式に分村した(甲斐国志)。文化三年(一八〇六)村明細帳(加々美四郎家文書)によると、寛文九年、明和八年(一七七一)に検地が行われており、田二六石余・二町六反余、畑四二石余・七町余、家数三七、ほかに寺三・薬師堂一があり、人数一四三(うち僧一二)

金井村
かないむら

[現在地名]員弁町北金井きたかない石仏いしぼとけ

員弁川の東、西方にしがた村の北西に位置する。江戸時代を通じて桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「大泉ノ内」、元禄郷帳には「大泉村枝郷」とあり、また「五鈴遺響」には大泉おいずみ村属邑と記される。郡内に同名の金井村(現大安町)が存するため、大泉金井村ともよばれていた。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、家数九八、人数四六〇、牛二八、馬三。また明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)では、家数九九、うち医師・油絞・紺屋各一、人数四五九(男二四三・女二一六)、牛一二、馬二二とある。

金井村
かないむら

[現在地名]大安町南金井みなみかない

員弁川の右岸、梅戸うめど村の北にあり、主たる集落は員弁街道を中心に形成されており、梅戸村の集落と連檐している。当村は南金井ともよばれ、「五鈴遺響」によれば同郡内に別に金井村(現員弁町北金井)があるため、梅津金井うめづかないと称して区別していたという。これは一つには梅戸村に近接しているためであるが、慶安郷帳(明大刑博蔵)に「梅戸内金井村」とあり、梅戸に属していたことがわかる。このことから、当村は中世において梅戸御厨の一部を構成していたと考えられる。元禄郷帳には「梅戸村枝郷」とみえる。江戸時代の前期・中期は桑名藩領であったが、文政六年(一八二三)おし(現行田市)藩領となった。

金井村
かないむら

[現在地名]吾妻町金井

東は岩井いわい村と榛名はるな山中腹より流れ出る寺沢てらさわ川をもって境とし、北は吾妻川。鎮守の一宮いちのみや神社が鎮座する市敷いちしきを中心に川原かわら水頭みずかみなどの小字がある。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高一七八石余。寛文郷帳では田方三一石余、畑方四四石余。寛文三年(一六六三)沼田藩領新検地控では三五四石。貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では二〇〇石余、元禄郷帳では幕府領。江戸後期の御改革組合村高帳によると旗本保科領で、家数三九。天明三年(一七八三)浅間焼けでは二人が流死した(同四年「浅間焼流死人施餓鬼経木届」鎌原文書)

金井村
かないむら

[現在地名]中野市大字金井

東は竹原たけはら、西は間長瀬まながせ田麦たむぎ、南は若宮わかみや荒井あらい、北はこしの各村に接し、村の中央を東谷筋ひがしたにすじ道が貫通している。

夜間瀬よませ川の洪水による災害を被ることが多いので開発が遅れていたが、用水堰が整うにつれて集落も大きくなった。延宝六年(一六七八)より夜間瀬川用水の取入口をめぐって金井村と八ヶ郷用水組合村々との間に争論が起こり、結局夜間瀬川堰上で取り入れ松崎まつざきで分水する八ヵ郷のしきたりを認め、金井村は松崎より河原への落水と下流の出水を用いるとの裁断を幕府評定所が翌七年一一月一二日に下した。

金井村
かないむら

[現在地名]西方村金井

和久井わくい村の南、小倉おぐら川西岸の氾濫原沖積平野を占め、例幣使街道が通る。西方郷一三ヵ村の一で、中世西方城の城付六ヵ村に含まれ、慶長四年(一五九九)と寛文二年(一六六二)に検地が行われたという(西方記録)。慶安郷帳では田三七三石余・畑三五七石余、武蔵岩槻藩領。のち下総古河藩領を経て、元禄一〇年(一六九七)旗本横山領となり幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数七九(改革組合村)。西方郷用水の下郷四ヵ村に属した。壬生みぶ通壬生宿の定助郷で勤高九九九石(享保四年「壬生宿助郷帳」鈴木貞一文書)

金井村
かないむら

[現在地名]津山市金井

勝南しようなん郡に属し、西は瓜生原うりゆうばら村、北は福力ふくりき村。枝郷に中原なかばら村があり、延享四年(一七四七)に里分・奥分に分村する。元禄一一年(一六九八)幕府領となり、同一四年から宝永六年(一七〇九)まで甲斐甲府藩徳川綱豊領、その後幕府領となり、奥分の以後の領主は西吉田にしよしだ村と同じ。里分は延享四年から天保六年(一八三五)まで但馬出石藩領、同九年以後津山藩領となる(美作国郷村支配記)正保郷帳では田方六一九石余・畑方一五八石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では九七八石余、うち改出高一六七石余・開高三三石余。延享四年分村し、奥分一五三石余・里分二五二石余(東作誌)、天保郷帳では中原村とともに九七八石余。

金井村
かないむら

[現在地名]塩尻市大字金井

塩尻宿の東端から南へ折れて一町余、善知鳥うとう峠へ向かう伊那道の西側、川沿いの村。もとは金谷かなやといった。中世末期頃東の田川浦たがわうらから現在地へ移ったという(塩尻地史)

中世まで塩尻郷東条ひがしじように所属していたと考えられるが、東条のうちのほかの七ヵ村が近世まで村名を現さないのに金井だけは鎌倉末期から記録に現れているので別であったかとも思われる。貞治四年(一三六五)守護小笠原長基と諏訪社上社大祝諏訪直頼が塩尻の金屋で戦って小笠原氏が勝っている(守矢満実書留)が、この金屋は金井のことであろう。

金井村
かないむら

[現在地名]坂城町金井

南は鼠宿ねずみじゆく村、北は横尾よこお村に接し、東は山地で西を千曲川が流れる。

慶長七年(一六〇二)検地で金井村は高四一一石三合、四〇町八段六畝余(金井村明細帳)。また家数は一一三、人数五九五人、座頭一、神子一、鍛冶二、紺屋一であった。秣刈敷場は、横尾山で、同村の取次で籾二俵を納めた。横尾・金井・鼠宿・新地四ヵ村の入会であった。薪取場がないので、上田領洗馬せば(現小県郡真田町洗馬)へ入札年貢銀三〇匁を年々納めて入った。

金井村
かないむら

[現在地名]御前山村金井

西北は山地に臨み、村の南を流れる那珂川に向かって開けた平坦地に位置する。東は大畠おおはた村。那珂川と並行して茂木もてぎ(現栃木県芳賀郡)烏山からすやま(同那須郡)への街道が村を東西に横断する。天保郷帳に「金井村」とみえ、その注記に「古者土路部村」とあり、元禄郷帳に「土路部村」と記される。古くは土路部とろべ村であったが、元禄一五年(一七〇二)に金井村と改称した。

金井村
かないむら

[現在地名]笠間市金井

西は日沢ひざわ村、南は寺崎てらざき村。中世は笠間氏の支配下にあり、金井山の東麓に土豪の館跡がある。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高二五六・四一五石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて一〇石余を打出す。

金井村
かないむら

[現在地名]四賀村中川なかがわ 金井

松本藩領会田あいだ組で、のち幕府領。西は両瀬りようぜ村、東は原山はらやま村に接し、会田川の上流中川の北側に位置する。

天正検地帳には一〇九石四斗とあり、「信府統記」には享保九年(一七二四)当時の石高は一六八石九斗八升五合、うち田一一五石二斗八升七合、畑三六石八合とあり、寛文年間(一六六一―七三)は田五町九段六畝二四歩、畑七町三段七畝六歩で、慶安検地の際は本百姓一三軒、門百姓八軒であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報