釈堂(読み)しやかどう

日本歴史地名大系 「釈堂」の解説


しやかどう

[現在地名]大津市坂本本町

西塔の中心堂宇(本堂)で、転法輪てんぽうりん堂とも西塔中堂とも称される。最澄の付属を受け釈迦堂建立のため西塔に赴いた第二代座主円澄は(叡岳要記)、建立予定地に延秀の草庵があったので東の地に移し釈迦堂を創建したとされ、承和元年(八三四)のことと伝える(山門堂舎由緒記)。恵亮系の説では西塔を開き、当堂の前身を建てたのは延秀であるという。同年三月の供養は円澄を檀主とし、呪願真言宗の空海が、導師を南都法相宗の護命が勤め盛大に行われた(叡岳要記)。安置仏は「阿娑縛抄諸寺縁起」などによれば、本尊は最澄本願の半金色釈迦如来、脇侍は元慶年間(八七七―八八五)から延喜年間(九〇一―九二三)にかけて作られた金色の普賢文殊をはじめ綵色の梵天帝釈天・四天王や木造文殊などの像。


しやかどう

[現在地名]結城市結城 永横町

永横ながよこ町の西部に所在。慶福山万福まんぷく寺釈迦堂と号し、新義真言宗。本尊釈迦如来。もとは久保田くぼた慶福けいふくにあったが、結城秀康の時代に現在地に移転したという。「下総旧事考」は嘉吉年間(一四四一―四四)久保田から結城城の西館にしだてに移り、慶長年間(一五九六―一六一五)現在地に移されたと記す。須賀すが神社の別当寺で、隣接して建てられ、寺領一五石。境内雷神らいじん社と稲荷神社の合祀社がある。

天保一一年(一八四〇)一〇月、釈迦堂は須賀神社神事勤役をめぐり須賀神社社人杉山藤太夫と争論を起こしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報