酒谷城跡(読み)さかたにじようあと

日本歴史地名大系 「酒谷城跡」の解説

酒谷城跡
さかたにじようあと

[現在地名]日南市酒谷甲

酒谷川南岸の丘上に位置する。北には丘が続き、東・西には水田が広がる。水田面との比高は約四〇メートル。空堀に区切られた四つの郭からなり、飫肥おび城から都城に通じる交通の要衝を占めていた。逆谷・坂谷などとも書いた。享徳―長禄年間(一四五二―六〇)頃のものと思われる野辺盛仁所領目録(野辺文書)には盛仁の日向国の当知行分のうちに「飫肥酒谷之城一円」などとみえ、一五世紀中期以前に築城されていたと考えられる。

文明一六年(一四八四)一〇月、飫肥の領主新納忠続と櫛間くしま(福島、現串間市)伊作久逸との間が険悪となった。久逸は伊東祐国の援助を得て、同年一二月三日飫肥南郷なんごう(現南郷町)を落して当城を攻めたが、和泉久氏が固守して庄内しようないと飫肥との交通路を確保した。同月二〇日、救援のため薩摩から義岡島津豊久が単身三〇〇の兵を率いて「酒谷之内竈が蔵」(吉野方の鎌ヶ倉砦)に陣を構えたが、二二日に伊作・伊東氏の大軍に攻撃され豊久は戦死、当城も落ちている(「文明記」、「義岡豊久譜」旧記雑録など)。翌一七年閏三月、島津武久(忠昌)は伊東氏によって包囲された飫肥城の新納氏と連絡するため八郎左衛門を当地に派遣した(同月二四日「島津武久書状」新納氏系図)。六月には島津方の北郷敏久らが酒谷のうち「中山権現之尾」に布陣している(「島津氏家譜」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android