北郷
ほんごう
島津庄日向方内の郷名。現都城市北東部および山田町・高崎町・高城町の南部一帯に比定される。建久図田帳には、島津庄一円庄のうちに諸県郡内の「北郷三百丁」がみえ、地頭は島津忠久であった。これより以前から伴氏系の北郷氏(日置氏)が北郷弁済使職をもっていた。文治五年(一一八九)一〇月三日の源頼朝御教書(旧記雑録)によれば、源頼朝は北郷(日置)兼秀より弁済使職安堵の申請を受けたが、子細を知らないとしてその判断が忠久にゆだねられており、忠久が早くから当地とかかわっていたことがわかる。兼秀は忠久が頼朝に従って奥州平泉に遠征した際随行し、この奉公により同年一一月忠久から北郷弁済使職に補任された(「惟宗忠久下文」同書)。その後の北郷弁済使の管轄をめぐる領家と地頭との相論では、建暦元年(一二一一)の北条義時の時期の下知状に、在地の名主を改めて自身の郎従を補任してよいとする判断を覆して、寛喜二年(一二三〇)弁済使職は領家の管轄とされ、地頭の成敗は及ばないとされた(同年一一月関東下文写「備忘抄」所収文書)。また兼秀は建永元年(一二〇六)北郷図師職に補任され、安貞二年(一二二八)同職は成秀に相伝知行されたが、その間地頭は図師職になんら関与していなかったことを理由に、弁済使職同様寛喜二年一一月領家の進止とされた(「関東下文写」同文書)。その後兼秀は、北郷五郎兼持が弁済使相伝にかかわる祖父来西入道の文書を盗み出し、目代源太の証判を加えるなど偽造したとして訴え出ており、北郷氏内部で相伝文書をめぐって争いが起きている。元徳二年(一三三〇)七月の島津庄雑掌承信重申状写(同文書)によれば、北郷弁済使職を継承した北郷丹後房亮雅(日置氏)は、北郷図師職名田の益松名とともに久富・林田・安永・益永・弥吉・法楽の各名の名主職を先祖開発の私領で相伝の地であると主張していた。これに対し雑掌承信は亮雅の主張を偽りとし、前記名主職を領家進止とする裁許を下されるよう証拠の文書類を添えて重ねて訴え出ている。
文保二年(一三一八)三月二三日付の関東下知状并島津道義譲状案(樺山文書)には、島津道義(忠宗)から六男資忠に同日勲功の賞として宛行われた「日向国河南之内北郷之内三ケ二」と「山西ニ中郷」を譲るとある。また同日付関東下知状案(同文書)では「日向国山西椛山 石寺嶋津 しもかはち 河南之内北郷之内三ケ一」が勲功の賞として宛行われ、これより以前の同月一五日付の道義譲状案(同文書)ではこの地を五男資久に譲与するとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
北郷
きたごう
宮崎県中北部,美郷町北部の旧村域。五十鈴川上流域にある。 2006年南郷村,西郷村と合体して美郷町となる。江戸時代は延岡藩領。産業は農業が中心で,野菜,シイタケの栽培が行なわれる。中心集落の宇納間 (うなま) にある全長寺の延命地蔵は火切り地蔵として広く信仰されている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の北郷の言及
【小山[町]】より
…京浜地域に近く,用地,用水,交通などの立地条件に恵まれて,近年多くの工場が進出している。町の中央部を占める北郷地区は米作を主体とする農業地帯であるが,近年はゴルフ場,霊園などの開発が進み,富士スピードウェーも設置された。北西部の須走は富士山東口登山道の入口で,浅間神社がある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」