部田村(読み)へたむら

日本歴史地名大系 「部田村」の解説

部田村
へたむら

[現在地名]岬町中滝なかだき 部田

中滝郷の一村で押日おしび村の南西にあり、北西部を夷隅川が流れる。慶長六年(一六〇一)九月の伊南之庄中滝検地帳(中村家文書)に部多村とある。元禄八年(一六九五)までの領主の変遷は中滝村と同様。同年旗本阿部五千石領に含まれ、幕末に至る。同年の中滝村と臼井うすい村との知行替の際に、村高不足を調整するため当村の百姓一五人、高一二五石余・一四町九反余が押日村扱いになっている(中村家文書)。同九年には田三〇町六反余・畑七町一反余で、年貢は米二一六石余・永一九貫五八三文、宝永四年(一七〇七)には一三町三反余が当見捨で一六四石余・二一貫三八二文、寛延元年(一七四八)には見捨二三町六反余となり九七石余・二〇貫三〇四文(同文書)

部田村
へたむら

[現在地名]草津市青地町あおじちよう

追分おいわけ村の東に位置し、南は丘陵地。中世は当地一帯に青地庄(→青地城跡が成立していたとされ、青地氏の本拠地といわれる。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に村名がみえ高二三七石余を記す。寛永石高帳では高一千二〇一石余、伊勢菰野藩領・膳所藩領の二給で、以後幕末まで同じ。慶安高辻帳では菰野藩領の田五六三石余・畑三九石余・永荒四〇〇石余、膳所藩領の田九九石余・畑一九石余・永荒八七石余。寛文七年(一六六七)の菰野藩領の検地帳(井口文書)によれば、田四五町三反余・畑二町九反余。

部田村
へたむら

[現在地名]大多喜町部田

小谷松こやまつ村の南、夷隅川左岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一三六石。村高は幕末まで変化ない。「部田」分を含む慶長二年(一五九七)山中郷御水屋鋪帳(寺嶋家文書)があり、山中やまなか郷六ヵ村の一。元禄一六年(一七〇三)の伊北庄部田村検地帳(渡辺家文書)では田三町八反余・畑一〇町三六反余。寛永一〇年(一六三三)旗本田中領になったとみられ(寛政重修諸家譜)、幕末に至る(旧高旧領取調帳)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三一。文化三年(一八〇六)の年貢は米一七石余・永一九貫文余(「田畑反別名寄帳」渡辺家文書)

部田村
へたむら

[現在地名]東郷町春木はるき

東は境川を隔てて三河一色いしき福田ふくた両村(現西加茂郡三好町)に接している。村名の由来は明らかでなく、村域も時代によって変動があったと考えられる。天保村絵図によると、村の中央部に北方から祐福寺ゆうふくじ村地、南方から沓掛くつかけ村地(現豊明市)が入込み、その結果、東西に二分される形になっており、祐福寺文書などにも傍示本ほうじもと祐福寺あるいは部田村祐福寺などとあって、傍示本・部田両村のうちから祐福寺領が分離・独立して祐福寺村を形成したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報