通町(読み)とおりちょう

精選版 日本国語大辞典 「通町」の意味・読み・例文・類語

とおり‐ちょう とほりチャウ【通町】

[1] 〘名〙 目抜き大通り。また、目抜き通りに沿った町筋。
浮世草子本朝二十不孝(1686)五「其後徳三郎は通町(トヲリテウ)に棚出して商の道広く」
[2] 江戸の日本橋を中心にして南北に通ずる大通り。筋違橋から今川橋・日本橋・中橋・京橋・新橋をへて金杉橋に至る通り。十二間の幅があり通り十二間と呼ばれた。
※俳諧・江戸通り町(1678)四吟哥僊「実(げに)や月間口千金の通り町〈芭蕉〉 爰に数ならぬ看板の露〈二葉子〉」

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日本歴史地名大系 「通町」の解説

通町
とおりちよう

[現在地名]丸亀市通町

城の北側、城下のほぼ中央部に位置する。「西讃府志」に「富屋町ヨリ東ニ入リ葭町ニ出ル、町長二町七間余、銀札場ヨリ北ニ折レテ西平山ニ至ル、本町ト号ク、長サ二町五十七間余、本町ヨリ東ニ折レテ米屋町ニ出ル、畳屋町ト名ク、長五十一間余、漸ク西ニ折テ富屋町ニ至ル廿間、松屋町通リ西ニ折テ横町ニ至ル七十間、東ニ折テ松屋町ニ至ル二十間、又東ニ折テ宗古町ニ出ル十六間、富屋町ヨリ続ク所、堀側町二十間」とあり、南北の本町ほんまち筋を中心に東西に畳屋町たたみやちよう筋・堀側町ほりがわちよう筋などがあった。

通町
とおりちよう

[現在地名]高知市かみ町一―五丁目・通町

水通すいどう町の南側に並行する両側町。慶安二年(一六四九)町立てが行われたという。寛文九年(一六六九)の城下町絵図に「通町」とみえるが、以前はお小人が多く住んでいたのでお小人こびと町ともよばれたという。慶安二年、野中兼山が岩崎又右衛門に宛てた書状(山内家文書)に「御小人町御普請成就仕、町割迄仕舞申」とみえるのは当町のことか。

通町
とおりまち

[現在地名]高崎市通町

砂賀すなが町の北部東側から北に位置する。遠堀南東端にある田畑から北に延びる町で、ほぼ長方形であった。西側は白銀しろがね町から砂賀町、東側は遠堀。町屋分は南北二町一五間半・東西一町一五間半で、名主は高橋勘右衛門・岩城弥右衛門(高崎寿奈子)。井伊氏が町割をした時には中山道が通ったため町名が付けられた(高崎志)。城下の本通りであったが、慶長七年(一六〇二)には中山道が西側に移ったため、通町を本道とした町割は四年間ほどで変更になったという(更正高崎旧事記)

通町
とおりまち

[現在地名]徳島市通町一―三丁目・両国本町りようごくほんちよう一丁目

八百屋やおや町・なか町・紀伊国きのくに町の南に並行する東西の通りに沿った町人地。徳島城の南西寺島てらしま口の楼門から寺島橋(徳島橋)に出て、主席家老稲田九郎兵衛の徳島屋敷と次席家老賀島主水の屋敷の間を西に抜けて西横にしよこ町に至る。三町続きの町。伊予街道土佐街道・讃岐街道筋にあたり、南西方から城に入る道筋であることから町名があるという(阿波志)

通町
とおりまち

[現在地名]高岡市通町

旅籠はたご町の東端を北に折れ、北陸街道に沿って南北に延びる両側町。通り町とも記す。北は利屋とぎや町、南は博労畳ばくろうたたみ町。交通の要地であったうえ隣接する二番にばん町には町会所があったので、高岡町南部の繁華街として栄えた。豊臣秀吉から拝領した御所車を前田利長から下賜されたと伝える七町の一。本町で、時割は九時五歩二厘、地子地二四四歩二厘(不歩記)。明治六年(一八七三)の坪数三千六九坪四合(沽券調総計帳)

通町
とおりまち

[現在地名]仙台市通町一―二丁目・青葉町あおばまち北山きたやま一丁目・葉山町はやままち柏木かしわぎ一丁目

通町通(奥州街道)北鍛冶きたかじ町の北に続く街路で、臨済宗東昌とうしよう寺の門前を東へ直角に、同宗光明こうみよう寺前で北東に折れてつつみ町に通じる。通町の称は町・みなみ町・国分こくぶん町など奥州街道沿いの町々の呼称であったが、のち当地を限定していうようになったとされる。

通町
とおりまち

[現在地名]彦根市中央町ちゆうおうちよう

伝馬てんま町の南にある両側町で、外堀の突当たりの高宮たかみや口を橋で渡ると土橋どばし町に至る。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数二七のうち借家一〇、男一〇六・女七七(下人六七)、諸職諸商は一三種二五軒で、小間物屋四ほか麻問屋・綿問屋・木綿屋・蚊帳屋・畳屋・油屋・大工・木挽など、屋号としては堺屋・河内屋・和泉屋・山形屋など、また御代官町代奥村孫兵衛の居住が確認され、横目は酒屋が勤めている。

通町
とおりちよう

[現在地名]松山市平和通へいわどおり二丁目

松山城下町の北東部、しろ山の周辺部に近く位置し、みがき町・三春みはる町と平行して東西に通ずる町筋。東は壱万いちまん町、西は水口みなくち町、南は三春町、北は壱万村に接する。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「惣町数七拾壱町」のなかに町名がなく、各種の城下町図にも記載されていないことから考えると、江戸時代の後期に町名が公称されたのであろう。

通町
とおりまち

[現在地名]大館市通町

城下北端部の町人町長木ながき川左岸に存立、「六郡郡邑記」に「新丁通町也」とある。もとは小屋が一、二軒点在する空地であったが、元禄元年(一六八八)町役佐賀名兵衛・清水多兵衛は通町と改め、往還なるがゆえに丁代を置いたという(郷村史略)

通町
とおりまち

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

加里屋の中央東寄りを南北に通る町。大手隅櫓の堀の前の木戸から北に延び、一町目筋と交差して六三間で二町目筋に突き当り、右折して約三間で左折、三町目筋・てら町筋と交差して細工さいく町の東端に至り、八一間で姫路街道に続く(宝永元年加里屋町絵図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報