近松別院(読み)ちかまつべついん

日本歴史地名大系 「近松別院」の解説

近松別院
ちかまつべついん

[現在地名]大津市札の辻

浄土真宗本願寺派。宗教法人名は本願寺近松別院。本尊阿弥陀如来。文献上、近松坊大津顕証けんしよう寺・近松顕証寺とみえ、近松山顕証寺と号していた。蓮如の六男(第一三子)で近松殿・顕証寺殿・光応寺殿と称された蓮淳の拠点となり、蓮如・実如・証如の三代の宗主に仕え、本願寺の教団経営に手腕を発揮した。

近江若狭・越前寺院神社大事典〉

〔蓮如の近松坊〕

比叡山衆徒の堅田大責の翌年文明元年(一四六九)春、三井寺(園城寺)満徳まんとく院の斡旋のもと、三井寺の境内である大津南別所に本願寺蓮如によって建立された近松坊に始まる(本福寺跡書・蓮如上人縁起)。寛正六年(一四六五)の延暦寺西塔の衆徒による大谷本願寺破却以後、蓮如は親鸞木像等の法物を携え、京都市中や栗太くりた安養あんよう(現滋賀県栗東町)堅田本福かたたほんぷく(現大津市)、大津の道覚の道場を転々とするが、近松坊が創建されて以後はここに居を移す。蓮如は文明三年越前吉崎よしさき(現福井県金津町)に下って坊舎を建立するが、「根本御絵像」(拾麈記)は同一二年京都山科やましな(現京都市山科区)御影堂の建築が完成し、一一月一八日に近松坊より移座されている。

「蓮如上人仰条々」には「大津顕証寺開山也」とあり、理由は不明ながら開基を蓮如ではなく長男の順如とする。順如は文明一五年五月二九日に四二歳で没するが、絵像や法名を下付するなど近松坊にあって蓮如を補佐していたようで、「蓮如上人仰条々」は「山科ノ御坊ニハ蓮如上人御座候、大津ノ御坊ニ順如上人マシマシシ比、皆人々両所ヘ年始ニハ早々御礼ニ被参候ケル」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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