山科(読み)やまもがしか

精選版 日本国語大辞典 「山科」の意味・読み・例文・類語

やまもがし‐か ‥クヮ【山科】

〘名〙 双子葉植物の科名。世界に六二属一〇五〇余種があり、主に南半球の熱帯の乾燥地に分布する。高木または低木で、乾性植物が多い。葉は互生し托葉がなく、花は総状、穂状または頭状花序に咲き、通常両性で左右相称。花被片は四個で花冠状になり、雄しべは四、子房は上位で一室、多数または一個の胚珠がある。果実は袋果、石果または堅果。普通、この仲間は雄しべ先熟で受粉小鳥や昆虫によって行なわれる。日本の暖地にはヤマモガシが自生する。

やましな【山科】

京都市行政区の一つ。市の南東部、山科盆地の北半部にある。京都と大津を結ぶ交通の要地。かつては茜(あかね)・ナスを産したが、現在は住宅地。天智天皇陵随心院勧修寺(かんじゅじ)などがある。昭和五一年(一九七六東山区から分区。

やましな【山科】

姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「山科」の意味・読み・例文・類語

やましな【山科】[地名]

京都市東部の区名。東にある逢坂山峠は大津への交通の要地。天智天皇陵・坂上田村麻呂墓・勧修寺などがある。古くは「山階」とも書いた。

やましな【山科】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「山科」姓の人物
山科言継やましなときつぐ

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「山科」の意味・わかりやすい解説

山科【やましな】

山城国宇治郡の北部,現在の京都市東部にある山科盆地一帯をさす古代以来の地名。ほぼ同市山科区域にあたる。古代の山科盆地には山科・小野・余部(あまるべ)の3郷があったが(《和名抄》),12世紀半ばころまでに小野・余部地域をも含めて山科とよぶようになった。平城京の時代には北陸道(のちの奈良街道にほぼ合致)が通って山科駅が置かれ(804年停止),平安京造営後は東海道の要衝となる。盆地の南部,西野山(にしのやま)に中臣(なかとみ)の地名があり,縄文時代から平安時代までの複合遺跡〈中臣遺跡〉が所在する。遺跡の中心は古墳出現期前後および古墳時代後期の集落跡で,古代豪族中臣氏との関連が指摘されている。中臣氏は早くから山科に住み,中臣鎌子(藤原鎌足)は当地に陶原(すえはら)館とよばれる邸宅を構えていた。この館が山科精舎となり,のちに奈良興福寺(別名山階寺)へと発展した。中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)が667年山科に隣接する近江に大津京(近江大津宮)を営んだのも,山科における中臣氏の勢力をたのんでのことであろう。天智天皇は山科に葬られている(天智天皇山科陵)。平安遷都後は近郊の要地として開けていき,寺院が多く建立された。なかでも安祥寺,元慶(がんぎょう,がんけい)寺,勧修(かんしゅう)寺,随心(ずいしん)院などは寺格も高く勢力を誇り,のちの時代まで山科の歴史に深くかかわった。1167年山科大宅(おおやけ)に後白河上皇が〈山科新御所〉を造営,御所とその周辺所領が同上皇の寵妃(ちょうひ)丹後局高階栄子(たかしなえいし)を経てその子冷泉(山科)教成(のりしげ)に伝領され,山科の大部分は皇室を本所とし,山科家領家職をもつ皇室領山科小野荘(山科荘)として推移する。南北朝期以降は再編されて〈山科七郷〉と総称される郷村が形成されるが,領有関係に変化はなく,室町時代から戦国時代にかけて,朝廷の山科七郷への賦課や幕府の命は,山科家を通じて処理されている。中世期の山科でいまひとつ特記すべきことは,1478年の蓮如による山科本願寺の建立で,1532年に焼亡するまで本願寺とその寺内町は,浄土真宗本願寺派の拠点として栄えた。今も土塁などが残り,一角に蓮如の墓がある。近世には山科家の支配を離れるが,ほとんどの村(17村・6000余石)は皇室領(禁裏御料)であった。自治的結合は消滅したが山科七郷の組織はうけつがれ,皇室との密接な関係は継続し,ことあるごとに郷士が御所に勤仕し,諸種の負担をも負った。幕末・維新期には朝廷方についてさまざまに活躍している。1889年山科村が成立,1926年町制施行,1931年京都市東山区の一部となるが,1976年山科区として分離。
→関連項目四宮河原

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「山科」の意味・わかりやすい解説

山科 (やましな)

山城国宇治郡北方を占め,京より大津に向かう東海道の間にある地名。北西を東山連峰,東を逢坂山(おうさかやま)に囲まれた山科盆地を占め,ほぼ現在の京都市山科区に該当する地域。縄文時代から古墳時代にかけての中臣(なかとみ)遺跡があり,早くから人間が住んでいたことがわかる。山科古窯跡群は7世紀初頭の須恵器窯で,藤原(中臣)鎌足邸の〈山科の陶原(すえはら)〉の地と推定され,中臣氏が領有していたと思われる。天智天皇が〈山科野〉で猟をしたり,陵墓が造営されたことは,中臣氏との関係をうかがわせる。山科の郷名は《和名抄》にみえ,《延喜式》によると,山科園から早瓜が供御月料となっていた。寺院では,興福寺の前身である山階寺(やましなでら)があったといい,平安京遷都後も,安祥寺(あんしようじ),元慶寺(がんぎようじ),勧修寺随心院醍醐寺など多くが創建された。また貴族たちの別荘もあり,その山荘の地名から,藤原園人は〈山科大臣〉,仁明天皇の皇子人康親王は〈山科宮〉と呼ばれている。さらに後白河法皇の山科新御所が造営されると,御所の営料として山科の一帯は施入され,法皇の寵妃丹後局(たんごのつぼね)(高階栄子(たかしなえいし))に伝領され,さらに局の子の山科教成に伝えられた。山科家は皇室を本所として代官職の家となり,山科を代々管理した。山科家は高倉家と並んで装束の有職(ゆうそく)の家柄である。南北朝以降の郷村制の発達にともない,この地は山科七郷として組織された。山科家の史料は,東京大学史料編纂所,国立公文書館内閣文庫,宮内庁書陵部などに膨大な量が残されており,郷村内のことがよくわかる。1478年(文明10)には浄土真宗の山科本願寺が設置され,1532年(天文1)8月に柳本信尭,六角定頼らが法華宗徒を率いて本願寺を焼くまで,真宗の本拠地であり,その間,本願寺の寺内町として栄えた。
執筆者: 山科の地は近世も引き続き禁裏御料(皇室領)が多く,1601年(慶長6)徳川家康が京都近郊に設定した御料1万石の約6割がここである。1700年(元禄13)の郷帳では四宮,安朱,御陵など20ヵ村が記され(以後多少変動あり),禁裏御料のほか随心院,勧修寺,醍醐寺および毘沙門堂領も存在した。この地の山科郷士は禁裏との関係が強く,天皇即位ごとの参賀のほか,幕末期など一朝事あるたびに御所の警備についている。山科盆地のとくに山際は水利が悪く,そのため溜池も多く設けられ,米作のほか大麦,小麦,木綿,菜種,煙草,茶および枇杷(びわ),筍(たけのこ)なども産した。また東海道筋にあたるため京都~大津間の交通が頻繁で,この地から大津へ稼ぎに出る人馬もみられた。1926年町制,31年東山区に編入されたが,76年山科区として分離した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山科」の意味・わかりやすい解説

山科
やましな

京都市東部の地域。山科区を構成する。京都盆地と東山(ひがしやま)丘陵で隔てられた山科盆地の北部を占め、東は醍醐(だいご)山地が連なる。大津市との境にある逢坂(おうさか)山峠は、京都から東へ向かう唯一の通路で、古くから東海道が通じ、現在もJR東海道本線、東海道・山陽新幹線、JR湖西線、京阪電鉄京津線、名神高速道路、国道1号が逢坂山を越える。そのほか、市営地下鉄東西線も通じている。

 古くは遊猟の地で、貴紳の山荘が営まれ、安祥寺、勧修(かじゅう)寺、随心(ずいしん)院などの寺院が建立された。1478年(文明10)蓮如(れんにょ)が山科本願寺を造営し、寺内町八町が設けられたが、1532年(天文1)六角定頼(ろっかくさだより)と法華(ほっけ)宗徒に焼打ちされ、のちに東西両本願寺の山科別院が再建された。明治末ごろまでは純農村で、山科ナスの栽培など近郊農業が営まれたが、1912年(大正1)京津電車(現、京阪電鉄京津線)が開通して京都市との結び付きが強まり、1931年(昭和6)山科町は京都市東山区に編入された。第二次世界大戦後は急速に宅地化が進み、現在では大部分が市街地となり、1976年には東山区から分かれて山科区が成立した。山科盆地北部に天智(てんじ)天皇陵、南部に随心院、勧修寺などがある。

[織田武雄]

『『京都府山科町誌』(1930・山科町)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android