車返(読み)くるまがえし

精選版 日本国語大辞典 「車返」の意味・読み・例文・類語

くるま‐がえし ‥がへし【車返】

〘名〙
① 山などで道が険しく、そこから先の通行が不能であるため、車を引きもどさなければならない所。また、そのように道の険阻なところの地名。
曾我物語(南北朝頃)一二「三嶋の拝殿に通夜申、あくれば、三嶋を出て、くるま返しに立やすらひ」
② 戦陣や武術で戦法や技をいう。
※随筆・安斎随筆(1783頃)二八「上杉家に車返と云ふ行(てだて)は退く様にもてなし先よりくるりと引廻すなり」
(ロ) 長刀を使っての剣術の一つ。
※幸若・信太(室町末‐近世初)「長刀つかう兵法に、なみのこしぎり・稲妻ぎり・車かへし・やる刀」
(ハ) 柔術の起倒流の技の一つ。〔起倒流伝書‐人(1800)〕
サトザクラの園芸品種。花は淡紅色で、径四センチメートルくらい。同じ枝に重弁から単弁のものまでが交じる。
浄瑠璃・生写朝顔話(1832)大磯揚屋の段「コレ此花は車返(クルマガヘ)し、桜の数も多き中、取分け人の賞翫するは」

くるま‐がえり ‥がへり【車返】

〘名〙 (車の輪が回るように見えるところから) 「もんどり」の一種。手を地につけ足をのばして、くるくると横転すること。〔俚言集覧(1797頃)〕

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日本歴史地名大系 「車返」の解説

車返
くるまがえし

中世の史料に散見する地名で、車帰とも記す。東海道が通り、同街道の宿でもあった。一般に車返という地名は、街道が通る地の急坂下や渡河点などに多くみうけられるが、現三芳みよし蓮光れんこう寺の東側の坂が地名の由来となった「車返の坂」といわれ、同所の一帯(近世の三枚橋町)に比定される。また一五世紀後半のものと思われる年未詳正月二五日の藤原持頼書状(日枝神社文書)には「駿州車帰日吉山王」とあり、現ひら町日枝神社も車返のうちであった。

「源平盛衰記」巻二三(畠山推参附大場降人事)によると、治承四年(一一八〇)一〇月、源氏軍は平家勢を追って足柄あしがら峠を越え、伊豆国府、三嶋社(三嶋大社)を経て駿河に進んだ。このとき源氏の軍勢は「木瀬川宿、車返、富士の麓野、原中宿」などに二〇万六千余騎が満ち満ちていたという。承久の乱で鎌倉に召喚された後鳥羽上皇の近臣藤原光親は、承久三年(一二二一)七月一二日「車返辺」で幕府の使者に会い、同日籠坂かごさか(現小山町)で誅殺された(吾妻鏡)。嘉禎四年(一二三八)二月一日、将軍藤原(九条)頼経は上洛の途中「車返牧御所」に到着し、帰還の折の同年一〇月二六日にも当地に宿泊している(同書)。「牧御所」の詳細は不明であるが、「駿河志料」は大岡おおおか牧の長者(大岡氏)の屋敷で、蓮光寺の境内がこの長者屋敷の跡地と記す。日蓮は文永一一年(一二七四)五月に鎌倉から「くるまかへし」・富士大宮ふじおおみや(現富士宮市)を経て甲斐国に入り(五月一七日「日蓮書状」日蓮聖人遺文)、元徳三年(元弘元年、一三三一)七月下旬には元弘の乱で捕らえられた日野俊基が鎌倉へ送還される際、当地を通っている(「太平記」巻二俊基朝臣再関東下向事)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

動植物名よみかた辞典 普及版 「車返」の解説

車返 (クルマガエシ)

植物。里桜の品種。キリガヤの別称

出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報

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