諸橋保・諸橋六郷(読み)もろはしほ・もろはしろくごう

日本歴史地名大系 「諸橋保・諸橋六郷」の解説

諸橋保・諸橋六郷
もろはしほ・もろはしろくごう

諸橋保は鎌倉前期よりみえ、鳳至郡南東部に位置した。内浦沿岸部の現穴水かぶと・諸橋地区から能都のと町の三波さんなみ地区の一部および宇出津うしつ地区付近に比定される。諸橋六郷は戦国期よりみえる広域地名で、諸橋保の比定地に現能都町の鵜川うかわ山田やまだ地区および三波地区の残り(矢波)を加えた地域に比定される。なお、諸橋保・諸橋六郷の中心地域である諸橋本郷に所在する諸橋稲荷神社は、諸橋六郷の惣社である。

〔諸橋保〕

承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に鳳至郡「諸橋保」とみえ、公田数は初め二四町五段四であったが、二〇町一段に減っており、立券は建治元年(一二七五)と記されるが、検討の余地がある。建長三年(一二五一)五月二七日、鎌倉幕府執権北条時頼の嫡男(時宗)出産に際し、祈祷の賞として北条氏から鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当の隆弁に諸橋保が与えられ(「吾妻鏡」同日条)、隆弁は「登州諸橋庄」を近江園城おんじよう寺別院の如意によい(現京都市左京区)領とした(三井続灯記)年次に検討の余地がある文応二年(一二六一)六月一三日の諸橋六郷田数目録(諸橋稲荷神社文書)の作成者として公文家継・如意寺雑掌快秀・金峯山雑掌覚祐の名がみえ、如意寺のほか金峯山きんぶせん(現奈良県吉野町)が当保の経営にかかわっていたと考えられる。前掲田数目録の内容は、江戸期において、鎌倉期のものに戦国期の諸橋六郷に関連する地名を加えて改変した可能性が強いとされるが、承久三年の前掲田数注文に独立してみえる珠洲すず宇出津うしつ(現能都町)がこの時期諸橋保に含まれており、ほかに当保は本郷(諸橋・阿曾良・鹿波の上三郷)古君ふるきみ馬島ましま(現能都町)から構成されていた。総田数四二町五段三のうち見作田は三三町六段三で、そのうち神田八町七段五と人給田としての地頭給・守護給・公文給・刀禰給・番頭分・村使分・散仕分一二町三段七を除いた一二町五段一(うち布免田二町八段)が定田であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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