侍町(読み)さむらいまち

日本歴史地名大系 「侍町」の解説

侍町
さむらいまち

[現在地名]三田市屋敷町やしきまち天神てんじん二丁目

ほん町・みなみ町の南西町人町より一段高い段丘上と三田陣屋の西側および北側の武庫むこ(大川・三田川)右岸沿いに配置された武家屋敷町。安政二年(一八五五)模写寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)では三田藩主一族の九鬼氏をはじめとした重臣屋敷が陣屋大手おおて門と本町くろ門を結ぶさくら馬場に面してあり、中・上級家臣屋敷が二の丸西側、傍示山ぼうじやまとの間に二九、おお川右岸沿いに一四(うち一は九鬼靱負屋敷)、その他は南町おお池の南裏に屋敷割されている。三田藩家臣屋敷数は総数約一二〇であった。

侍町
さむらいまち

[現在地名]下関市大字豊浦村

長府の南西部、壇具だんぐ川の南にあたると思われる。近世にこの町名が通称されたかは不明。

「長府廻」に「文治元年平家追討の節、土肥実平居住の地なり、依て今に土肥山の名あり、侍町は其の時諸侍を置かれし所なり」と記す。近世、侍町と思われる付近は、毛利家・乃木家蔵の両長府古図ともに変わりなく長府藩の家臣と思われる武家屋敷が描かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報