蓮華寺跡(読み)れんげじあと

日本歴史地名大系 「蓮華寺跡」の解説

蓮華寺跡
れんげじあと

[現在地名]安芸区瀬野川町中野・瀬野川町畑賀

瀬野せの川下流右岸、瀬野川せのがわ中野なかの・同畑賀はたかの間にある蓮華寺れんげじ山山頂にあった。八葉山名峰院蓮華寺と称し、真言宗に属した。天文一二年(一五四三)六月の勧進僧某願文や明星院本尊厨子扉墨書銘・芸陽広島明星院千手大悲像記(いずれも「知新集」所収)などによれば、大同元年(八〇六)空海によって開かれたが、寛平年間(八八九―八九八)頃堂舎などを焼失したため、二代住持覚賢阿闍梨が京都仁和寺の千手観音像を申請けて再興。

蓮華寺跡
れんげじあと

[現在地名]秋芳町大字岩永本郷 照岡

岩永本郷いわながほんごうの南、照岡しようこうにあった曹洞宗寺院で、粟屋元豊の菩提寺

創建年代や寺歴は不詳だが、「注進案」に「深川大寧寺玄兆和尚被仰談、廿一日蓮華寺山之御葬送被相調、同廿三日、四日御法事執行被仰付候」とあり、元和元年(一六一五)一〇月二一日、元豊の葬儀が当寺で行われたことがわかる。元豊の父元盛は、岩永の領主岡部氏が大内義隆とともに長門深川の大寧ふかわのたいねい(現長門市)で自刃した後、岡部氏の居館および所領を譲与された内藤隆春の養子で、元和元年毛利輝元の密旨を受け、佐野道可と変名して大坂城に籠った。

蓮華寺跡
れんげじあと

佐介さすけやつ辺りに位置したという説(鎌倉志・攬勝考)、同時期にあった佐介ヶ谷の悟真ごしん寺と名越なごえの蓮華寺が後に併合したものではないかとする近年の説がある。宗旨・沿革は未詳。開山良忠、開基北条経時。

「鎌倉大日記」は建長三年(一二五一)の建立と伝えるが、「風土記稿」は年代など誤りとし、仁治元年(一二四〇)北条経時が佐介ヶ谷に建立、寛元元年(一二四三)材木座ざいもくざへ移し光明寺と改称したという。皇国地誌は建長三年の建立は北条時頼が兄経時冥福のために再建したものであろうとしている。一方、「風土記稿」所載の寺島蓮華寺縁起には佐介ヶ谷に経時菩提のため時頼が弁法印審範を開山として蓮華寺を建て、経時の子佐々目大僧正頼助が寺島てらじま(現東京都墨田区)を知行していた頃に鎌倉の蓮華寺を武蔵に移し、弘安三年(一二八〇)八月建立とあり、開山とあわせて寺史検討の余地がある。

蓮華寺跡
れんげじあと

[現在地名]阿久根市波留

波留はるのほぼ中央、高松たかまつ川の右岸にあった臨済禅寺。旧寺地は現在ほとんどが墓地(蓮華寺墓地)となっている。瑞香山と号し、伊集院広済いじゆういんこうさい(現伊集院町)の末寺であった。応永五年(一三九八)の創建、開山の高標は莫禰氏の出であった。宝徳年中(一四四九―五二)頃、島津忠国の子伊甫は当寺に入って南渓について修行、のちに還俗、叔父用久を継いで薩州家二代となり、国久を名乗った(以上「三国名勝図会」など)。国久は文明二年(一四七〇)一〇月九日に子々孫々にわたって当寺に対する他門の妨害を禁じる書下(薩州用久系図)を発するなど、還俗後も当寺を厚く保護したため、中興開基は国久、同開山は南渓とされている。

蓮華寺跡
れんげじ

[現在地名]鯖江市川島町

川島かわしまの西端、加多志波かたしば神社に隣接してあったと思われる寺。現存しない。同神社境内の観音堂にある鬼面の裏側に、「越前国今北西郡成得保 日吉別所蓮華寺修正 常住父鬼面也、貞和二年歳次丙戌正月十三日修補之」という朱漆銘がある。これによれば、南北朝期以前からあった古寺で、また当地の専立せんりゆう寺・浄願じようがん寺はともに当寺の末流と伝える。両寺の寺伝によると、蓮華寺は応請山と号し、養老二年(七一八)泰澄の草創で、正観音・千手観音・十一面観音を安置し、のちに真言宗になったという。先の鬼面の納められていた古い木箱の板片に次のようにある。

蓮華寺跡
れんげじあと

[現在地名]徳地町大字船路 下庄

船路の下庄ふなじのしもじようにあった中世の寺院。宗派不詳。本尊は釈迦如来

「注進案」によれば、俊乗房重源が東大寺再建の材木切出しの時、台山の麓で大木を切り、筏として佐波川を流すことになったが、弟子の蓮花坊がこの筏とともに淵に沈んで亡くなった。重源はそれを哀れみ蓮花坊の僧像を刻み一宇を建立、蓮華寺と名付けたのに始まる。その後蓮華寺は御坂みさか神社の社坊になったとも伝えるが詳細は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報