蒲生銅山跡(読み)がもうどうざんあと

日本歴史地名大系 「蒲生銅山跡」の解説

蒲生銅山跡
がもうどうざんあと

[現在地名]岩美町蒲生

塩谷しおたに法正寺ほうしようじにあった銅山。因幡・伯耆両国で銅を産出したのは当地だけで、岩井いわい銅山とも称された(在方諸事控)。江戸時代初期には金を産したといわれ、金山の坑道跡が塩谷に三、法正寺に四あるという(因幡志)。享保一八年(一七三三)白地しらじ村の者が銅山を操業したが二―三年で中絶、同二〇年には蒲生村の三人と長谷ながたに村の一人が塩谷村奥の蔵之下くらのした(現倉ノ下タ)などの金銀山・銅山の採掘権を希望し藩許を得ている(在方諸事控)。同年藩は「岩井郡銅山制札」を設けており(在方御法度)、以後本格的な採掘が行われたらしい。元文五年(一七四〇)蒲生村の庄町しようまち銅山(現上庄町)では大坂の升屋茂七と鳥取の久米屋太三郎の両名によって名代経営が行われていたが、生産不振のため藩命により閉山した(在方諸事控)。延享三年(一七四六)幕府の銭座から京都の薄田四郎左衛門の手代奥平幸七が派遣され岩井銅山の産銅をもって銭の鋳造が行われた(在方御定・在方諸事控)。幸七の口上書によると字ちやうすやまの産銅を用い一五年間に年間二万貫の銭を鋳造、運上銀は年間五〇〇両余とし、さらに産出した銅について一〇駄当り代銀約五貫目余を上納することなどが条件として藩に示されている(在方諸事控)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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