葛西善蔵(読み)カサイゼンゾウ

デジタル大辞泉 「葛西善蔵」の意味・読み・例文・類語

かさい‐ぜんぞう〔‐ゼンザウ〕【葛西善蔵】

[1887~1928]小説家。青森の生まれ。自らの生活の苦悩を描き、破滅型の私小説作家といわれる。小説に「哀しき父」「子をつれて」「放浪」「湖畔手記」など。

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精選版 日本国語大辞典 「葛西善蔵」の意味・読み・例文・類語

かさい‐ぜんぞう【葛西善蔵】

小説家。青森県生まれ。同人雑誌「奇蹟」の創刊に加わる。自然主義直系の芸術至上主義的私小説家。代表作「哀しき父」「子をつれて」「放浪」「蠢(うごめ)く者」など。明治二〇~昭和三年(一八八七‐一九二八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「葛西善蔵」の意味・わかりやすい解説

葛西善蔵
かさいぜんぞう
(1887―1928)

小説家。明治20年1月16日、青森県中津軽郡弘前(ひろさき)町(現弘前市)に生まれる。歌棄(うたすつ)、酔狸州(すいりしゅう)の別号がある。北海道での放浪生活ののち上京。哲学館(現東洋大学)中退。徳田秋声に師事し、相馬御風(ぎょふう)を紹介されたのが縁で早稲田(わせだ)大学英文科の聴講生となり、光用穆(みつもちきよし)ら後の『奇蹟(きせき)』同人と相識(し)る。その創刊号(1912.9)に処女作『哀(かな)しき父』を発表、貧窮と一家離合を重ねるなかで『子をつれて』(1918)を書き、文壇に名をなす。芸術こそが「生活であり、宗教であり、心の糧(かて)であり、絶対の権威である」(舟木重雄あて書簡)とする葛西は、早く友親を絶して文芸のなかに強烈な自我の主張を志すのだが、同時にそれは、自虐エゴイズムの悪循環による破滅型私小説作家としての宿命を生きることであった。『遁走(とんそう)』『馬糞石(ばふんせき)』『不能者』『愚作家と喇叭(らっぱ)』など、主として身辺に取材したものだが、一方に飄逸(ひょういつ)な味わいを失わぬ作風は、優れて的確な描写力と相まって「早稲田志賀」の呼称を生んだ。寡作家であったための貧と病苦を紛らす酒とによってしだいに敗滅の相を深めてゆくが、滅びることを恐れぬ反俗の厳しさのゆえに、「苛烈(かれつ)味の文学」ともいわれた。昭和3年7月23日、文字どおり陋巷(ろうこう)に窮死することになるが、その滅びゆく姿を彼は『椎(しい)の若葉』『湖畔手記』(ともに1924)などの名編に書き残している。口述筆記に頼りながらも、その対象化の確かさと豊かな詩情とは衰えず、志賀直哉(なおや)や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)と並んで、大正期文学史にきわめてユニークな個性を刻むことになった。

[榎本隆司]

『『葛西善蔵全集』3巻・別巻1(1974~75・津軽書房)』『大森澄雄著『葛西善蔵の研究』(1970・桜楓社)』『谷崎精二著『葛西善蔵と広津和郎』(1972・春秋社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「葛西善蔵」の意味・わかりやすい解説

葛西善蔵 (かさいぜんぞう)
生没年:1887-1928(明治20-昭和3)

小説家。青森県生れ。初め葛西歌棄(うたすつ)と号した。哲学館大学(現,東洋大学)中退。1908年に結婚。またこの年,徳田秋声の門をたたき,かつ,早稲田大学の英文科に聴講。12年に舟木重雄,広津和郎らと同人雑誌《奇蹟》を創刊し,《哀しき父》《悪魔》などの秀作を発表したが,不遇であった。18年に発表した《子をつれて》によって,やっと文壇の注目をひくに至る。おもな作品には,他に,《不良児》(1922),《蠢(うごめ)く者》《椎の若葉》《湖畔手記》(以上1924),《死児を産む》(1925),《酔狂者の独白》(1927)などがある。これらは,いずれも,自己および自己の周辺に素材を取った私小説である。生活無能者であった葛西の生涯のテーマは,作家としての精進のためには骨肉の情をも捨てねばならぬという決意と,それに伴う苦悩とであった。いわゆる破滅型の,私小説作家の典型であるが,その作品には作者葛西のもつ飄逸みからくる一種の明るさも与えられている。
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百科事典マイペディア 「葛西善蔵」の意味・わかりやすい解説

葛西善蔵【かさいぜんぞう】

小説家。弘前生れ。徳田秋声に師事,広津和郎らと同人雑誌《奇蹟》を創刊。1918年《早稲田文学》に《子をつれて》を発表して認められた。その後《椎の若葉》《湖畔手記》等を書き,典型的な私小説作家と目された。《葛西善蔵全集》がある。
→関連項目嘉村礒多谷崎精二

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「葛西善蔵」の意味・わかりやすい解説

葛西善蔵
かさいぜんぞう

[生]1887.1.16. 青森,弘前
[没]1928.7.23. 神奈川,片瀬
小説家。北海道,青森県の各地を転々としたのち上京し,哲学館大学,早稲田大学英文科の聴講生を経て,1912年広津和郎らと同人雑誌『奇蹟』を創刊。処女作『哀しき父』 (1912) には貧窮,一家離散,孤独,病気,耽酒などのどん底で,芸術的信念を貫こうとする個性のあり方を,とぼけたおかしみをもって追求するという生涯のテーマがみられる。出世作『子をつれて』 (18) も,子を連れて街頭をさまようという貧乏話。自然主義の伝統を継いだ私小説に徹し,破滅型と呼ばれる苛烈な自虐的作品を相次いで発表したが,他方,超俗的な人生観照の姿勢が巧まぬ詩情とペーソスを漂わせている。主著『湖畔手記』 (24) ,『贋物 (にせもの) さげて』 (17) ,晩年の愛人ハナが登場する『おせい』 (23) 以下の「おせいもの」,『蠢 (うごめ) く者』 (24) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「葛西善蔵」の解説

葛西善蔵 かさい-ぜんぞう

1887-1928 大正時代の小説家。
明治20年1月16日生まれ。大正元年広津和郎(かずお)らと同人誌「奇蹟」を創刊し,「哀しき父」を発表。7年発表の「子をつれて」で文壇にみとめられる。貧困,病気,酒びたりの生活の中で私小説作家として芸術のためには身の破滅もおそれないという自虐的なまでの姿勢をつらぬいた。昭和3年7月23日死去。42歳。青森県出身。作品はほかに「湖畔手記」「蠢(うごめ)く者」など。
【格言など】こどもはやがて父の死からたくさんの真実を学び得るであろう

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「葛西善蔵」の解説

葛西善蔵
かさいぜんぞう

1887.1.16~1928.7.23

大正期の小説家。はじめ歌棄(うたすつ)と号す。青森県出身。若くして貧窮生活を送るが,すべてを犠牲にしつつ孤独の中で芸術の完成をめざした。破滅型の私小説作家として知られる。1912年(大正元)同人誌「奇蹟」を創刊し,「哀しき父」を発表。18年「子をつれて」で注目された。後期作品に心境小説「湖畔手記」などがある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「葛西善蔵」の解説

葛西善蔵
かさいぜんぞう

1887〜1928
大正時代の小説家
青森県の生まれ。1912年広津和郎らと同人誌『奇蹟』を発刊。処女作『哀しき父』を発表し,『子をつれて』で地位を確立。生活苦にあえぎ,自虐的な私小説を書いた。

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