芋生村(読み)いもうむら

日本歴史地名大系 「芋生村」の解説

芋生村
いもうむら

[現在地名]川西市芋生・けやきざか

西多田にしただ村の北西に位置し、芋生川の流域を占める。中世多田庄のうち。正安二年(一三〇〇)九月二六日の公文代僧眷盛寄進状(多田神社文書)に、眷盛が多田院惣社六所権現(六所宮)に灯油料として寄進した田のなかに「苧生旧田」「禅師谷開分」などがあり、後者の田畠の注に「苧生寺」免田(一反六〇歩)を除くと記されている。同寄進状の末尾に山木を伐り払うべからずと記されており、当時大平おおひら山山麓にあるこの地が開墾されていく様がうかがえる。延慶三年(一三一〇)には僧隆真が「芋尾大般若田」名主職二反を三貫五〇〇文で六所権現に売渡している(四月一八日「隆真売券」同文書)

芋生村
いもうむら

[現在地名]鹿北町芋生

東部を岩野いわの川が南流し、村央を同川支流の芋生川が東流する。南・北・西の三方を標高四〇〇メートル前後のたけノ山・山・ひこ岳の山塊に抱かれた谷間に立地し、北は岩野村四町しちよう村に接する。戦国期に村名を冠した芋生氏がいて、現山鹿やまが寺島てらじまの芋生氏歴代の墓所にある宝篋印塔には芋生摂津守が刻まれる。慶長四年(一五九九)検地帳によれば田二二町六反一畝余・畠一五町五反五畝余・屋敷二二筆一町四反余、分米三七四石四斗余。

芋生村
いもうむら

[現在地名]橋本市隅田すだ町芋生

紀ノ川北岸の河岸段丘にあり、北部を大和街道が東西に通る。東は真土まつち峠を経て大和国宇智うち(現奈良県五條市)。「万葉集」巻三の「亦打まつち山夕越え行きて廬前いほさき角太河原すみだかはらに独りかもねむ」の角太河原は隅田の辺りの紀ノ川河岸、廬前は当村南の紀ノ川に突出した所と考えられている。仁安元年(一一六六)一一月日付の公文藤原忠村田畠等処分状案(隅田家文書)に「芋生」がみえる。

中世は隅田庄に属し、応永二六年(一四一九)一二月日付れいちん畠地売渡状(芋生家文書)によれば「すたの中すちいもうの村つりかいと」の畠二反が「いもう二郎」に売渡されている。中世、芋生氏は当村を中心に河瀬こうぜ村・赤塚あかつか村などを領していた(明徳元年三月七日「芋生氏知行分長帳」同文書)

芋生村
いもうむら

[現在地名]中村市坂本さかもと

中筋なかすじ川が四万十しまんと川に合流する辺りの下、四万十川右岸の村で坂本村の枝郷。地名は正嘉二年(一二五八)七月二四日付中原某下文(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「供田等可免公事」として「香山寺供田参町 同灯油畠壱町字芋生云云」とみえ、弘安四年(一二八一)五月日付前摂政鷹司兼平家政所下文案・建武二年(一三三五)四月七日付権少僧都心慶下知状(同文書)にも香山こうさん寺供田畠の所在を記して「同村(中村)内芋生灯油畠壱丁」とある。これによればこの頃当地は幡多はた庄本郷の「中村」に含まれていたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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