坂本村(読み)さかもとむら

日本歴史地名大系 「坂本村」の解説

坂本村
さかもとむら

[現在地名]台東区北上野きたうえの一―二丁目・下谷一―三丁目・入谷いりや一―二丁目・松が谷まつがや三―四丁目・竜泉りゆうせん一丁目

東叡山寛永寺の北東に位置する。村名は寛永寺建立のさい比叡山麓坂本(現滋賀県大津市)に擬して名付けられたといわれているが(下谷通志)、名主二葉伝次郎所蔵の天正一九年(一五九一)の検地帳には坂本・坂本前・坂本屋敷前という地名がみえ、上野郷と記してあるというので、寛永寺創建以前からの地名ということができる。元亀(一五七〇―七三)頃には二葉ふたば広沢ひろさわ村と唱えたともいわれる(風土記稿)。二葉伝次郎は毎年正月二日に日光門主に牛蒡二五本を献上していた。これを二葉牛蒡とよんだ(文政町方書上)

寛永一一年(一六三四)坂本村一五三石余が東叡山寛永寺領として寄進された(「東叡山領寄進覚」東叡山御規定)。田園簿では田一〇〇石・畑五〇石。元禄郷帳では高二二二石余、天保郷帳では高二八七石余と増加し、旧高旧領取調帳では高二七七石余、寛永寺領。寛永(一六二四―四四)以来、西方東叡山麓の町場化に伴い村域はしだいに狭められ、坂本町・新坂本町などが成立した。二葉家に残る年貢割付によると、明暦二年(一六五六)村内に若干の町屋敷ができたほか、依田肥前同心屋敷や水谷伊勢守らの屋敷に土地が譲渡され、同三年と万治二年(一六五九)には松平主殿頭(丹波福知山藩松平忠房)・本多能登守(陸奥白河藩本多忠義)蔵福ぞうふく寺、新知恩しんちおん(幡随院)白泉はくせん寺・天龍てんりゆう寺・長光ちようこう寺・新寺しんてら町などに土地が渡された。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]観音寺市八幡町やはたちよう二丁目、観音寺町 坂本町・天神町てんじんちよう幸町さいわいちよう

観音寺村の東に位置し、北は財田さいた(染川)の北岸に及ぶ。古代の苅田かりた郡坂本郷(和名抄)の遺称地。建長八年(一二五六)八月二九日の柞田庄四至示注文(続左丞抄)柞田くにた庄の北限として坂本郷があげられ、その境は両方ともに田地とある。また同庄の示四本のうち一本は北東角の五条七里一坪、すなわち「紀伊郷并山本郷・坂本郷・当庄四之辻」に、一本は北西角、坂本郷との境である「釣洲浜」に打たれていた。苅田郡の条里と官道(南海道)についての研究によると、建長八年当時、苅田郡は一六条一二里よりなり、官道が七里と六里の里界を北から南へ走っていたと考えると、坂本郷は官道より西、現吉岡よしおか町字三野境みのざかいから数える四条と五条の界線より北で、現高屋たかや町の当免とうめん付近までとなる。近世の坂本村の北端は二条と三条の界線に沿っている。享徳元年(一四五二)閏八月一五日の琴弾八幡宮放生会祭式配役記(観音寺文書)には「坂本郷三ケ村ヨリ 同十五日ニ饗アリ」とみえる。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]八鹿町坂本

円山まるやま川を挟んで上小田かみおだ村・下小田村の対岸東方に位置し、北は伊佐いざ村、東は大江おおえ村など。鎌倉時代、国衙領大恵おおえ保内の一村であった与垣よがい村は地内の字与賀居よがい付近に比定される。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「与垣村 四町壱反百八歩」とみえ、田地の内訳は神田一反三四八歩、地頭分二町四反、公田壱町五反一二〇歩である。大恵保の地頭は肥塚三郎で、その没後七人が分領し、同保の他の村郷にはそれぞれ地頭名が記載されているものの、与垣村には地頭名の記載はない。近世の領主の変遷は舞狂ぶきよう村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高二三〇石余。元禄九年(一六九六)の村明細帳(八鹿町中央公民館蔵)では高二九九石余・反別二八町八反余。出石封内明細帳では拝領高二五九石余・改出高四〇石余、これらの内訳は屋敷五石余・麻畑五石余・田方九二石余・畑方一九六石余、ほかに古新発高四石余、家数六五・人数二六一。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]長南町坂本

長南宿の東に位置し、不動ふどう宮本みやもと法華ほつけ利根里とねり田宿たじゆく小金こがねの地名がある。「和名抄」記載の埴生はぶ郡坂本郷の遺称地と考えられ、上坂本村・下坂本村ともみえる。一四世紀前半頃とみられる称名寺領上総国請地等注文(金沢文庫文書)に埴生郡南坂本とあり、二町の地が金沢称名寺領で、請所として年貢一〇石余を寺家に納めていた。古代の坂本郷の南部地域が中世に南坂本とよばれたものであろう。和田系図(続群書類従)に、時代は不明ながら左近四郎義広が当地に居住したという記事がある。応永二六年(一四一九)再蜂起した上総本一揆は上総国「坂水城」に拠って木戸範懐を総大将とする追討軍と戦ったが(五月八日「鎌倉公方足利持氏御教書写」烟田文書)、この坂水城は坂本城の誤りで当地と考えられる。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]北区山田町坂本やまだちようさかもと

衝原つくはら村の東に位置し、近世八部やたべ丹生山田たんじようやまだ庄のうち。南端を志染しじみ(山田川)が西流し、村域北部に丹生山・帝釈たいしやく山がある。慶長国絵図には志染川沿いに湯山ゆのやまと播磨三木を結ぶ街道が描かれ、そこから分岐した丹生山(明要寺)参道の入口に坂本村と記され、高一二二石余。正保郷帳には高一五四石余とみえ、「丹生山明要寺山上ニ有千手観音山王権現」と付記。村内二石余が明要みようよう寺除地であった(享保二〇年摂河泉石高調)。領主の変遷は東小部ひがしおうぶ村に同じ。延宝八年(一六八〇)の家数四二・人数一六五、牛一六(「人別家数牛馬改帳」田中家文書)

坂本村
さかもとむら

[現在地名]伊勢原市大山おおやま

大山東南の中腹にあり、すず川の源流の大山川が北西から東南へ流れる。東は上子安かみこやす村、北は日向ひなた村、南は小蓑毛こみのげ(現秦野市)、西は大山寺境内に接する。小田原道・日向越とも称される富士道二条が通る。延徳二年(一四九〇)五月の上杉定正禁制写(県史三)に「大山寺并坂本辺」とある。慶長一五年(一六一〇)七月一七日の徳川家康黒印状写(相州古文書)によれば「坂本畠屋鋪七拾弐石余、子安内弐拾七石余」が大山寺八大はちだい坊に寄進されている。元禄・天保両郷帳ともに「坂本村」と記すが、「風土記稿」によれば村民は大山町と称し村名を唱えないとあり、享保二〇年(一七三五)相模国高改帳(藤沢市史料集一)では「大山」、天保一一年(一八四〇)の寄場組合村高家数明細帳(県史八付録)では「大山町」と記される。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]中央区楠町くすのきちよう一―七丁目・橘通たちばなどおり一―三丁目・多聞通たもんどおり一―三丁目

宇治野うじの村の西、六甲ろつこう山地南麓の小丘大倉おおくら山の西・南麓の丘陵に立地する。貞永元年(一二三二)以降の石清水八幡宮文書目録(石清水文書)に、治安三年(一〇二三)一〇月五日の山城石清水いわしみず八幡宮の宮寺領として摂津国「坂本」とみえる。当地に比定できるか。

慶長国絵図に坂本村とみえるが村高の記載はない。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では高二九一石余、幕府領。同年七月以降は尼崎藩領(「大垣藩地方雑記」岐阜県立図書館蔵など)

坂本村
さかもとむら

[現在地名]東秩父村坂本

奥沢おくさわ村の西に位置し、つき川の流域と同川左岸の南向き山麓に開かれた落合おちあい鍛冶屋かじや新井あらいみなみ和知場わちば上野山うえのやま柴組しばぐみ栗和田くりわだなどの各小名集落からなる。槻川沿いに川越秩父道が通る。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。地内八幡大神社の別当寺であった真知(智)山神力坊両尊りようそん寺に奉納された貞治四年(一三六五)八月一五日銘の懸仏(八幡大神社蔵)には「武州秩父郡 坂本 真智山」とみえる。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]平田町山元やまもと西坂本にしさかもと

三栗谷みくりや村の南東、田沢たざわ川とその支流小林こばやし川の合流点周辺に位置する。江戸後期の出羽荘内二郡絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)によれば坂本・千刈田せんかりだ五百刈ごひやつかり中峯なかみねなどの集落が山麓沿いに散在する。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に、砂越さごし城主武藤万歳丸の所領の一つとして「坂本」とある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に坂本興野村とみえ高一五石余。寛永元年庄内高辻帳には坂本村とあり高五〇石余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]明方村奥住おくずみ

吉田よしだ川最上流部にあり、南下流は鎌辺かまべ村。烏帽子えぼし岳を中心とする山で飛騨国と境をなし、東の坂本峠で大原おおはら(現大野郡清見村)、北の山中やまなか峠で寺河戸てらかわど(現同郡荘川村)に通じる。正保郷帳に村名があり、田方二二石余・畑方三四石余。宝暦四年(一七五四)の村明細帳(石田文書)では家数一七(水呑一)、人数一七二、馬一・牛二一。同九年の村明細帳(同文書)では、五年前と比べて男の人数が一三人減っており、宝暦郡上騒動の犠牲によるとみられる。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]名田庄村口坂本くちさかもと奥坂本おくさかもと

井上いがみ村の西方に位置する口坂本とその北西に広がる奥坂本からなる。正保郷帳・天保郷帳では併せて坂本村とするが、明治初年の旧高旧領取調帳は口坂本村一六三石余・奥坂本村七七石余と別個に高付している。口坂本北部をみなみ川がほぼ東流し、奥坂本を東南流してきた坂本川が合する。坂本川沿いに石山坂いしやまざか峠越の高浜たかはま(現大飯郡高浜町)への道があり(通称高浜街道)、この道は口坂本・棚野たなの坂を経て丹波のつるおか(現京都府北桑田郡美山町)と結ばれていた。高浜に集荷された海産物を丹波・京都に運ぶ重要な路線であり、当地の生活文化は高浜との関係が深かった。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]福光町坂本

開発かいほつ村の北西、明神みようじん川西岸にある。東は福光村、北は法林寺ほうりんじ村。城端じようはな(現城端町)・福光から加賀国へ向かう二俣ふたまた越がほぼ東西に通る。福光村から当村までは一二町、当村から国境までは一里三〇町(越中道記)。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる北陸道坂本駅の比定地の一ヵ所。近世前期には四十公方しじゆうくぼう・四拾窪・四十九坊などとよばれ(元和五年家高新帳など)医王いおう山四八ヵ寺に当地の凡浄ぼんじよう寺がのちに四九番目の寺として追加されたことにかかわるともされる。

坂本村
さかもとむら

面積:一六二・一九平方キロ

八代郡の南端に位置し、北は東陽とうよう村、東は球磨郡五木いつき村・山江やまえ村、南は同郡球磨村と葦北あしきた芦北あしきた町、西は八代市に接している。村域のほぼ中央部を球磨川本流が北流する。村域の約九割が山地で、集落は球磨川本流と並行して走る国鉄肥薩線・国道二一九号沿道のうち、国鉄だん駅・坂本駅・葉木はぎ駅・鎌瀬かませ駅周辺と、右岸の支流である袈裟堂けさどう川・深水ふかみ川・中谷なかたに川・油谷あぶらたに川・市の俣いちのまた川・枳の俣げずのまた川、左岸の支流今泉いまいずみ川・渋利しぶり川・百済来くだらぎ川・鶴喰つるばみ川などの川筋に立地し、なかでも西日本製紙工場がある坂本は都市型の集落を形成している。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]成羽町坂本

成羽川の支流坂本川の最上流地域に位置し、東は吹屋ふきや村、西は西油野にしゆの(現備中町)、南は東油野村(現同上)、北は哲多てつた郡境の分水嶺を越えて矢戸やと(現阿哲郡哲多町)。吉備津神社の流鏑馬料足納帳に康正三年(一四五七)分として「壱貫二百文 あなたさか本かくす所」とある。寛永備中国絵図に村名がみえ、高三二八石余で松山藩領、正保郷帳では幕府領で以降変わらず幕末に至る。同郷帳は枝村に中曾村・小野原村を記す。延宝五年(一六七七)の検地帳(西江文書)によると高三七一石余・反別七一町六反余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]三本木町坂本

東はありふくろ村、南は音無おとなし村、西は斎田さいだ村、鳴瀬なるせ川を隔てた北は堤根つつみね(現古川市)と接する。館山たてやま横穴古墳群や青山あおやま横穴古墳群など、古墳時代後期の遺跡が発見され、館山では九基が調査され、いずれも平面形が両袖式で方形の玄室をもち、床面に台床をつけない。遺物は金銅製耳環と須恵器。青山では七基が調査され、玄室は両袖式で縦長方形、立面形はアーチ状。出土遺物は金銅製耳環、銀製耳環、金銅製鞘尻のついた直刀、鉄鏃、鉄斧、かすがい、ガラス小玉と土器。土器は七―八世紀の須恵器と七―一〇世紀の土師器。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]焼津市坂本

石脇いしわき村の北西、中里なかざと村の北に位置し、高草たかくさ山の南麓に立地する。益津ましづ郡に属する。江戸時代の領主の変遷はなか村と同じ。慶長九年(一六〇四)七月の坂本村御水帳写(山田家文書)が残り、田方二七町九反余・畑方一〇町余、名請人一〇一人、うち一町歩以上一四人・一反歩以下六八人。元禄郷帳では高四六二石余。旧高旧領取調帳では高四六五石余、うち林叟りんそう院領七石・神明社(現坂本神社)除地一石・坂田社除地一石・八幡社除地一石。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]三朝町坂本

門前もんぜん村の北西に位置し、西は片柴かたしば村。村内を三徳みとく川が北流し、やがて西流する。倉吉往来(鹿野道)が通る。康永三年(一三四四)の伯耆国美徳坂本年貢銭納日記(壬生家文書)に「美徳坂本」とみえ、一〇月二二日・二七日条、一一月九日条などによれば、少なくとも当地の年貢一一貫文余が三徳山に納められている。「伯耆民談記」の美徳山の項にも「麓に坂本と云ふ村あり。此所の板橋を番場の橋と云ふ。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]大塔村大字阪本さかもと

小代こだい村の北、てんノ川曲流地に立地。西熊野街道と高野こうや街道の交差点に発達した村で、天辻てんつじ峠南麓にあたる。十二村じゆうにそん一郷いちごう組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石に含まれ、幕府領。延宝検地による村高は一四二・八七三石。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]加西市坂元町さかもとちよう

いち村の南西、西南にしなん村の西に位置する。西はきし村。地名は岸村の古刹久斗山長円ちようえん寺に登る坂口に由来すると思われる。坂元村とも記した。中世には坂田さかた庄に含まれた。慶長国絵図に村名がみえる。加西郡内にはもう一村、郡南部の法華山一乗いちじよう寺への登り口に坂本村がある。両村を区別するため郡南部の坂本村を、慶長国絵図では「法花坂本」、正保郷帳では「法花ノ坂本村」と記し、元禄郷帳・天保郷帳では当村を「坂田坂本村」と記している。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]中央町坂本

釈迦院しやかいん川に沿って山深く入った所にあり、集落はその流域に帯状に散在する。東から南にかけてはく(一〇七二・六メートル)を最高に大行寺だいぎようじ(九五七・四メートル)権現ごんげん(七四二メートル)がそびえる。北の下草野げぞの村境に内底うちそこ山がある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高六五石余、うち田方一七石七斗余・畠方四七石二斗余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]勝浦町坂本

与川内よがわうち村の西に位置する。北に杖立ついたて山・轆轤ろくろ山がそびえ、勝浦川支流の坂本川が東流する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「坂本村」と記される。正保国絵図では勝浦山坂本村とあるが、これは当村など一三ヵ村の総称と考えられる。勝浦山の主邑であったことからこのような記載になったのであろうが、高一千二〇五石余とするのも一三ヵ村を合せたものである。また別に坂本のうち松尾まつお村が記載される。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では勝浦山坂本村として高一千二〇五石余ですべて畑方、枝村の一三ヵ村が記載される。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]城南町坂野さかの 坂本

東を緑川が流れ、西は平野ひらの村に接し、南に吉野よしの山を背負う。古代坂本郷の有力集落の一つであったと思われる。吉野山周辺には吉野山古墳群があり、当村でも字さこ山畑やまはたを中心にてらやま古墳や山畑古墳などが分布している。中世は隈牟田くまむた庄に属した。字中郡なかぐんに弘治三年(一五五七)銘の板碑、字東山畑ひがしやまはたに永禄六年(一五六三)銘の板碑、西山畑墓地に五輪塔、天台宗本覚ほんがく寺跡である日吉ひよし神社境内に室町期の宝篋印塔・五輪塔などが残存する。しかし緑川の氾濫によって中世村落の原形はかなり崩れている。加藤清正が築いた桑鶴塘くわつるども(轡塘・霞塘)によって洪水の難から逃れられるようになった。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]松江市坂本町

澄水しんじ(五〇七・三メートル)南麓に位置し、東は福原ふくはら村。南を朝酌あさくみ川が流れる。同川支流の坂本川は「出雲国風土記」にみえる島根郡の水草みくさ(朝酌川)の源の一つとされ、「一水の源は、郡家の東北三里一百八十歩なる毛志山より出で」と記される。なお毛志もし山は澄水山といわれ、同書に島根郡家の北一里にあるとみえる。中世は持田もちだ庄に属し、坂元とも記される。永禄一二年(一五六九)八月二一日の天野隆重・新藤就勝連署書状(多賀文書)によると、多賀元竜が尼子勝久の出雲への乱入の際の軍忠に対する恩賞として勝久の家臣米原氏の給田のうち「坂本」一〇〇貫など計一千貫を賜りたいと要求しており、同年一〇月六日事態が鎮静化すればこの要求を認めるとの回答を得ている(「毛利元就・輝元連署書状」同文書)

坂本村
さかもとむら

[現在地名]野上町坂本

梅本うめもと村の北、梅本川東岸に位置し、東の南畑みなみばた(現美里町)とは飯盛いいもり峠で通じる。下佐々しもささ村から札立ふだたて峠を越えて有田郡に至る道と、福井ふくい小川おがわ八幡神社付近から分れて札立峠に至る道が通る。南北朝期以降高野山領小河柴目おがわしばめ庄に含まれた。応永二八年(一四二一)一二月五日の南景宗田地売渡状(高岡家文書)に「ヲカワノシヤウノ内サカモトノミヤウ(名)ヲノエ田、マクニ(真国)ミナミトノ(南殿)せンソソウテン(先祖相伝)ノ地也トイエトモ(後略)」とある坂本名は、当村と関係がある地とも考えられる。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]新見市坂本

千屋ちや村の南、高梁たかはし川右岸に位置し、集落は川沿いに上流から小瀬原こせばら・坂本・定清さだきよ野田のた小谷おだにと並び、少し離れた山中に矢谷やたにがある。中世は新見庄に含まれ、文永八年(一二七一)の新見庄惣検作田目録(東寺百合文書)などに、坂本・コセ原(小瀬原)・貞清(定清)・ノタ(野田)・コタニ(小谷)ほか当地の地名が数多くみえる。なおこの頃野田に地頭方の市場があったことが関連史料から明らかにされている。

寛永備中国絵図に村名がみえ、高一六四石余、山崎家治先知。このほか同帳に載る尾谷村・矢谷村ものち、全部ないし一部は当村に含まれた。尾谷村の高七五石、うち六五石は山崎家治先知、一〇石は天宗寺(天叟寺)領。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]松井田町坂本

急峻な上信国境から流れ下る碓氷川・霧積きりづみ川に挟まれた舌状台地中央部に位置し、現松井田町の西北端を占める。西方の碓氷峠を越えて信州に通ずる中山道の宿村であった。碓氷郡に属し、「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方三石・畑方二六五石余。元禄郷帳によるとこの高のほかに洞松どうしよう寺領三四石余があった。江戸後期の御改革組合村高帳では家数一八三、安中藩領。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]西京区大原野石作おおはらのいしづくり(坂本)

善峰よしみね川最上流、小塩おしお山東南麓に位置。北は大原野、東は長峰ながみね、南は灰谷はいたにの各村、西は乙訓おとくに寺戸てらど(現向日むこう市)ほか七村の入会地に接する。

古くは西岩倉にしいわくら(石坐)といい、元慶四年(八八〇)石坐神の授位が「三代実録」にみえ、「今昔物語集」には「西ノ石蔵いはくら」の名が載る(→金蔵寺。中世には善峰寺領荒野新田こうやしんでんの一部。

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳で西坂本村ともいわれ、村高二八三・七石余、領主は松木家一五〇石、川鰭家五七・二石余、花園家二七・一石余、姉小路家一七・一石余ほか、ほとんど公家諸大夫の零細知行で占められる。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]井川町坂本

井川中流左岸の低丘陵最西端に位置し、西は北川尻きたかわしり村、東は保野子ほのこ村に接し、北は井川を隔てて黒坪くろつぼ村と相対する。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「ゑひ沢村 こり田村 坂本村 本立村 中野村」として三六七石七升九合とあり、慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(同文書)には「海老沢村 坂本村 本館村 中村」として二七〇石六斗二升四合とある。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]藤原町坂本

藤原岳(一〇〇九・六メートル)の山麓、大貝戸おおがいと村の北西に位置する。江戸時代を通じて桑名藩領。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、村高六一四・八三四石のうち二一三・五八八石が「先規より郷蔵庄屋々敷分」として永引きになっている。文政七年の村明細帳(徳川林政史蔵)によれば、戸数一一四(うち高持一〇七・無高七)、人数は男二八三・女二七二、馬五〇。助馬金二分と銀七匁五分五厘を負担した。神祠に氏神山王権現(大貝戸村と持合)・山神四、寺院に敬善けいぜん寺・聖宝しようほう寺とある。明治五年(一八七二)の村明細帳(同蔵)には戸数一二九、人数は男二九四・女二七一、医師一・酒造稼二・醤油造一・紺屋一・油絞三、馬五〇。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]和泉市阪本さかもと町・東阪本ひがしさかもと

今在家いまざいけ村の東から南にかけての槙尾まきお川右岸に位置する。古代には和泉郡坂本郷(和名抄)の地、中世には坂本郷に成立した坂本庄内に含まれて推移した。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に村名がみえ、高四〇一石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、高四六二石余、幕府領。元禄九年(一六九六)の泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝でも同高、ただしほかに四二石余の新開(小名大木・戒下新田)が記される。延享元年(一七四四)和泉国村高記では四九〇石余。寛文二年(一六六二)から延宝六年(一六七八)まで大坂城代青山宗俊領。貞享元年(一六八四)以後の領主の変遷は今福いまふく村に同じ。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]保土ヶ谷区坂本町

橘樹たちばな郡の南に位置し、東から北にかけ帷子かたびら川を隔てて都筑つづき上星川かみほしかわ村、北は同郡川島かわしま村、南西から東端にかけて仏向ぶつこう村に接する。村内を北東に八王子道が通る。

幕府直轄領。元禄八年(一六九五)九月の検地帳(北村文書)では田五町余、畑屋敷五町七反余、ほかに居山四町四反余がある。明和七年(一七七〇)一〇月の新田検地(同文書)では下々畑一反余、林畑一反余、高合計六斗余を検出。元禄二年四月の保土ヶ谷宿助郷村高道程覚書(県史九)では助郷高六九石余を勤める。享保一〇年(一七二五)六月の村明細帳控(岩本文書)によると、用水は仏向村谷間の湧水を利用し、村内の用水堀一ヵ所は、仏向村・下星川村・神戸ごうど町三ヵ村組合である。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]三刀屋町坂本

蛇行する三刀屋川右岸の段丘上に連なり、川を挟んで北は乙多田おつただ村、西は多根たね(現掛合町)。永享年間(一四二九―四一)と思われる三月三日の出雲孝宗代宗高注進状(千家家文書)に「社領十二郷并多禰郷内坂本村」とみえ、杵築大社(出雲大社)領であった。永禄六年(一五六三)六月二八日の多賀山通定宛行状(田部家文書)では「懸合郷坂本村」とみえ、田部宗左衛門が「村之内を以壱貫前」を宛行われている。なお多禰たね郷はこの頃から郷名が懸合かけや(掛合郷とも)に変わってくる。

元禄十年出雲国郷帳によると高三三九石余、寛文四年(一六六四)の本田高三一七石余・新田高一石余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]日田市西有田にしありた 坂井町さかいまち

上手のぼて村の北方、花月かげつ川左岸に位置する。天文一五年(一五四六)大友氏が置いた日田郡八奉行の一人として坂本鑑次がおり(豊西記)、「日田造領記」などによると、郡老坂本氏は日田氏庶流で、塁は当地の山中原やまなかばるの城、別荘は中村なかむらにあり、当時の惣領は坂本伯耆守鑑次という。天正七年(一五七九)九月頃のこととして、「大友家文書録」綱文にみえる坂本備中入道道烈は大友氏の軍事組織では寄親となる有力武士で、「大友興廃記」では侍大将とある。同一七年一〇月の指出検地では最初にあげられ、知行田畠は一七六町九反と最も多く、一族には式部之丞・勘八・主税助・因幡守・平左衛門尉のほか一六名がみえる(「矢野家伝」渡辺家文書)

坂本村
さかもとむら

[現在地名]篠山市坂本

倉本くらもと村の東に位置し、宮田みやだ川が南西流する。地内につぼ竹田坪たけだつぼなどの地名が残されている。天台宗の宮田山福徳貫ふくとくき寺があり、同寺は往古に数十坊を擁したという。貞治四年(一三六五)六月の宮田庄上三ヶ村仏神田注進状(近衛家文書)に福徳貴寺とあり、田四町余・畠三段余とみえる。永徳二年(一三八二)五月九日の播磨国等檀那譲状(米良文書)に檀那職が覚有から松夜叉女に譲られている「丹波国福□寺」も同寺の可能性があり、同年の権大僧都覚有一跡配分目録(同文書)では福徳寺の寺号が記される。永正五年(一五〇八)頃、「丹州福徳貴寺合戦」があり、波々伯部大和守が活躍したようである(七月一五日「細川高国感状」波々伯部文書)

坂本村
さかもとむら

[現在地名]中村市坂本

芋生いもう村の西、四万十しまんと川右岸の村。「土佐州郡志」が「中村之南、前渡川、北接山、東西一里、具重・芋生等之小村通曰坂本村、戸凡十七、其土赤色、多砂石」と記すように、芋生村と西隣の九重くじゆう(具重)村は当村の枝郷。地名は建武二年(一三三五)四月七日付権少僧都心慶下知状(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に、当地にある香山こうさん寺の供田畠の所在を記して「同村(中村)内早代長田一丁但五段ハ坂本屋敷ニ替之」とみえる。なお嘉禎三年(一二三七)一〇月一八日付法橋某田地寄進状(同文書)によれば当地は幡多はた庄本郷に属している。

天正一七年(一五八九)の芋生村坂本村具重村地検帳によると坂本村の検地面積はわずか一町七反余だが屋敷数は三四を数える。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]加西市坂本町

中播丘陵の中央部にあり、東と北は三口みくち村、南は法華山ほつけさん。法華山一乗いちじよう寺の登り口にあたる。加西郡には坂本村が二ヵ村あり、古くは当村を「法華の坂本」といい、北部の坂本村は「坂田の坂本」とよんで区別している。天正一六年(一五八八)と推定される二月九日の木下吉隆書状(長浜文書)に法花坂本とみえ、吉隆は法花坂本など四ヵ所の百姓中に対し堤の普請と未進年貢の納入を命じている。慶長国絵図に法花坂本、正保郷帳にも「法花ノ坂本村」と記される。領主の変遷は延宝六年(一六七八)までは窪田くぼた村と同じ。それ以後は市場いちば村と同じ。正保郷帳では田方八二石余・畑方四石余。元禄郷帳では高一〇七石余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]二戸市白鳥しらとり

福岡ふくおか村の南東、白鳥川の中流域に位置する。坂元とも記した。南部利直から坂本忠甫が当地に知行地を与えられている(参考諸家系図)。正保国絵図に村名がみえ、高七三石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高六石余とあり、七ヵ年平均の免九分六厘三毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方四五石余・畑方二〇五石余で、当村へ白鳥村が入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では蔵入高五九石余・給所高二〇石余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]弘前市坂元さかもと

弘前城下の南西、久渡寺くどじ山の北東にある。北東は小沢こざわ村、東は大和沢おおわさわ村・一渡いちのわたり村に続き、東を土淵つちぶち川が北流する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡に村名があり、村高三一・〇六石、うち田方は二九・二六石。寛文四年(一六六四)の高辻帳でも村高は変わらない。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一一七・二七三石、うち田方一〇一・三九九石、畑方一五・八七四石、田位は上田から下々田まで、斗代は上田が一・一石と低い。畑方では上畑はない。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]亀山市安坂山あさかやま

池山いけやま村の北、野登ののぼり山の山麓に位置し、同山に発するみや川の細流に沿う山間の村。安楽あんらく谷五郷の一に数えられ、天正(一五七三―九二)の争乱期を経て近世に至るまで、池山・安楽両村と同じような経過をたどったと思われる。近世初期の帰属は明らかでないが、寛永一三年(一六三六)以後亀山藩領。「九九五集」によれば翌一四年の内検地では田畑合せて一三町余、村高一八〇石余があり、茶桑銭三貫余、竹銭四貫余、山年貢として米一石余、二分金は金三歩、銀六匁余が課されている。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]中町坂本

糀屋こうじや村の東、杉原すぎはら川の中流域西岸に位置する。姫路から丹波への街道が村内を通る。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では「そがい」(曾我井)と肩書されて村名がみえ、田方二〇六石余・畑方二〇石余、山役があり、幕府領。寛保二年(一七四二)三草藩領となり幕末に至る(「丹羽氏系譜」東京大学史料編纂所蔵、慶応四年「丹羽氏知行目録」池田家文庫など)。寛保二年の村明細帳(三草藩陣屋文書)によれば高二三八石余・反別一六町八反余、人数一九二、牛一一、郷蔵一、八幡・「阿弥ママ堂」・地蔵堂・観音堂がある。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]御浜町坂本

川瀬かわせ村の東、尾呂志おろし川の支流坂本川の上流にある。永徳二年(一三八二)五月九日の僧都覚有旦那等譲状(米良文書)に坂本の地名がみえる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「坂本村」と記される。新宮領で尾呂志組に属する。近世初期の家数二八(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)、後期は三六(紀州新宮領分見聞記)。宝永五年(一七〇八)に新田検地が行われた(「新田畑屋鋪改帳」徳川林政史蔵)

坂本村
さかもとむら

[現在地名]金沢区釜利谷かまりや

東と北は赤井あかい村・宿しゆく村、西は鎌倉郡上野かみの(現戸塚区)、南は鎌倉郡とうげ村に接する。村内を赤井村・宿村から上野村に至る鎌倉道が通る。古くは釜利谷郷の一部。寛永一三年(一六三六)江戸城内紅葉山東照宮の別当を兼ねる江戸浅草せんそう知楽ちらく院領となる(御府内備考続編)。寛文五年(一六六五)七月一一日の朱印状(県史八)では、坂本村二〇〇石がすべて知楽院領とされ、紅葉山の諸役を勤仕することとされている。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]静岡市坂本

藁科わらしな川上流に位置し、南は寺島てらじま村。もと清沢きよさわ郷の一部で、分村の経緯は赤沢あかざわ村と同じ。元禄郷帳では高六五石余。国立史料館本元禄郷帳では紀伊和歌山藩士丹羽・渥美両家の相給で、以後変化なく幕末に至る(旧高旧領取調帳など)。「駿河記」では家数一七。元治二年(一八六五)の宗門人別帳(山田家文書)による家数・人数は、渥美方が一二戸・八〇人、丹羽方が一〇戸・五九人、すべて当村の清源せいげん(現曹洞宗)旦那であった。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]篠山市口阪本くちさかもと西阪本にしさかもと

高屋たかや村の東に位置する。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「坂本村」とみえ、高三〇六石余。正保郷帳では田高二九五石余・畠高一一石。元禄郷帳では高三一〇石余。「丹波志」では河内かわち郷のうちで、高三四〇石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では高屋組のうちで、高三四五石余、家数三五・人数一六〇。「多紀郡明細記」では木ノ部組のうちとして田三二七石余・畑一七石余、片吹坪かたふきのつぼなど三ヵ所に七九石余の田畑があり、山役米二石四斗のほか、薪六一荷余・瓦焼木三一束を納めた。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]太宰府市坂本一―三丁目・観世音寺かんぜおんじ三丁目・坂本

観世音寺村の西、御笠みかさ川右岸に位置する。村名の由来は四王寺しおうじ山南麓にあり、同寺に参詣する道筋にあったことによるという(続風土記)。南部を日田街道が北西から南東に通る。小早川時代の指出前之帳では坂本村の田一町三反余(分米一六石余)・畠七反余(分大豆四石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は一四六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一四八石余、家数一一・社一、人数五六(田圃志)

坂本村
さかもとむら

[現在地名]坂内村坂本

坂内川と支流しら川の合流域一帯にある。正保郷帳に村名がみえ、尾張藩領、田五〇石余・畑一三九石余・山年貢一石余・紙木高六石余のほか、綿三〇〇匁・漆一〇〇匁・ひそ木六六九本・入木六六九束が課せられていた。元禄郷帳では大垣藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば田一五四石余・畑二〇七石余、田一二町一反余・畑二五町六反余、新田高として田一七石余・畑一三石余、田一町三反余・畑一町九反余、家数二四一・人数一千一五五、牛一三五。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]東脊振村大字松隈まつぐま字坂本

千石せんごく山の東南部の山麓地帯に位置する。田手たで川の支流である坂本川が流れる。

嘉保三年(一〇九六)六月二九日の東門寺文書紛失状案(修学院文書)に背振山宮の下宮を「坂本」に建立した文がある。慶長絵図には「坂本」(上東郷の内)とある。この村一帯には背振千坊・岳万坊の名が残るように、奈良時代から多くの僧坊があったと推定される。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]宿毛市橋上はしかみ町坂本

神有かみあり村の西北、松田まつだ川上流の松田川と下藤しもふじ川の合流点を中心とした谷間の村。橋上郷の一村。「土佐州郡志」は「村中有五所之名、東西二十町許南北三町許、戸二十四」と記す。カシノキダンには縄文時代の礫器や剥片が出土した坂本遺跡がある。

天正一五年(一五八七)の還住藪等三村地検帳および同一七年の橋上村々地検帳に村名がみえ、合せて検地面積六町八反余。小島出雲守の給地と「本土居分」が相半ばする。屋敷数一五、うち居屋敷一一。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]岩瀬町坂本

村の東・南は山地で、北に張出した裾野の両側に集落がある。北は小塩こしお村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。坂本村差出帳(安達家文書)によれば、慶安三年(一六五〇)の検地で村高一七〇・八七四石となり、万治三年(一六六〇)と延宝五年(一六七七)の新開検地で合せて六石余が打出される。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、御林一(一八町八反歩)、村山一、野山一、四壁山八、溜池三があり、文化期(一八〇四―一八)の戸数一五・人数五九、馬六。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]明和町坂本

はらい川右岸、斎宮さいくう村の北にあり、北は中海なこみ村、西は祓川を越えて高木たかき(現松阪市)へ通ずる。「神鳳鈔」に内宮領として「坂本御薗三石八斗五升八合」とみえる。享徳二年(一四五三)一一月付の三郡内神税徴納注文(氏経神事記)に「坂本御薗神税」とある。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]本山町坂本

汗見あせみ村の北方、南流する汗見川の東側流域に位置する。「土佐州郡志」には汗見川あせみかわ村内の一小村としてみえる。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳には「坂本名」とみえ、検地面積二町三反一七代二歩、うち田分七反一五代一歩、畠分三反九代二歩、屋敷数一二で一町二反四二代五歩。公事分と名本分からなる。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]天津小湊町天津あまつ

天津村の北、二タ間ふたま川中流に位置する山村。清澄せいちよう寺領で、元和四年(一六一八)の検地では分米二八石、天明六年(一七八六)の畑方反別は五反余(清澄寺文書)。「安房郡誌」には明治維新以前は村名はなく、清澄寺境内であったとあるが、実際の清澄寺境内とは距離に隔たりがある。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]勝本町 坂本触さかもとふれ

可須かす村の東に位置し、北西部はおお瀬戸に臨む。正保国絵図に村名がみえ、高二九一石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書に可須村のうちに坂本免とある。「壱岐名勝図誌」では坂本免とある。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]玉城町坂本

門前もんぜん村の北にある。条里制の遺構がみられ、七ノ坪・十ノ坪の地名がある。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、村高三八八石余のうち田方が三一九石余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]椎田町坂本

臼田うすだ村の西に位置し、岩丸いわまる川と極楽寺ごくらくじ川に挟まれた平坦地に立地する。正保国絵図に村名がみえ、高二一〇石余。

坂本村
さかもとむら

[現在地名]蒲郡市坂本町

市域の北端、鉢地坂はつちざか峠と遠望峰とぼね山の麓に抱かれる形で立地。慶長一七年(一六一二)松平清昌の保内領五千石のうちで、村高は一二〇石余、以後明治に至るまで西郡にしのこおり松平氏領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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