興禅寺跡(読み)こうぜんじあと

日本歴史地名大系 「興禅寺跡」の解説

興禅寺跡
こうぜんじあと

[現在地名]高萩市下手綱

竜子たつご山にあった臨済宗古寺。長松山と号する。本尊は不詳。「法海禅師行状記」に

<資料は省略されています>

とあり、「永禄二年竹閑座佐竹紹図並物語誌」(正宗寺蔵)に「上総介道源者十九歳にて道心起シテ多珂荘竜孤山興禅寺被(中略)興禅寺は竜孤山にあり、山号は長松山と云、無依和尚開山也」とある。両者に出る興禅寺が同一とすれば、文永(一二六四―七五)頃吉源入道善行が開基し無学静照(法海禅師)が開山した興禅寺は、佐竹上総介道源(貞義)が一九歳の時すなわち嘉元三年(一三〇五)に無依によって再興されたことになる。

興禅寺跡
こうぜんじあと

[現在地名]吉田町吉田

郡山こおりやま城内で現在郡山公園となっている地にあった臨済宗の大寺。海鳥山と号し本尊釈迦仏は広島瑞川ずいせん(現広島市東区)に移ったといわれる。毛利元就時代以前からの大寺で、「陰徳太平記」に「永正十年癸酉六月十八日、大明の船一隻来朝す、正使了庵仏日禅師に、燕都の相人朱良範先生、便船を乞ひて来著す(中略)芸州吉田に至て送り付けたり、大明並に日本の出家は興禅寺・大通院・曹洞寺に宿し、相人は吉田の市店に舎りぬ」とある。

毛利元就は尼子討伐が完了した永禄一〇年(一五六七)一二月、その祝を領民と分ち合うため、興禅寺に舞台をしつらえ、京より招いた観世太夫一座の能狂言を催した。

興禅寺跡
こうぜんじあと

[現在地名]財部町北俣

浦興禅寺うらこうぜんじにある。桜木さくらぎ村にあった臨済宗寺院。国分正興こくぶしようこう(現国分市)末で、雲竜山と号した。「三国名勝図会」などによれば、本尊の千手観音は坐像の長さ一尺六寸、仏師は井上左京進。月川を開山とし、その弟子を開基とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報