脇城跡(読み)わきじようあと

日本歴史地名大系 「脇城跡」の解説

脇城跡
わきじようあと

[現在地名]脇町脇町

現在の脇町市街の北西方に位置する。虎伏とらぶせ城ともいい、また岩倉いわくら城の東脇にあったことが脇城の名の由来とも伝える。「阿波志」などによると古くは藤原仲房の居城で、のち三好長慶が修復し、家臣の三河守兼則に守らせたと伝えるが、明証する資料は残されていない。ただし文化五年(一八〇八)の脇町成行之記録(脇家文書)などによると、当城の城下町は長慶によって整備され、また長慶は町屋敷の年貢・諸役を免除して、商人の集住を図ったという。その後は武田信顕(上野介)が在城し(古城諸将記・三好記)、天正七年(一五七九)土佐の長宗我部元親が美馬郡を制圧すると信顕も元親に降っている(元親記)。天正一〇年信顕は三好康長の勧めにより、岩倉城主三好徳太郎とともに再び三好方となるが、同年阿波を平定した長宗我部軍のため城を落され、信顕は讃岐逃亡、信顕の子信定は捕らえられて自害したという。武田氏の後には長宗我部新右衛門親吉が入城したが(古城諸将記)、天正一三年羽柴秀吉の四国攻略により開城した。

羽柴秀吉の四国攻めで、阿波には羽柴秀長、羽柴(三好)秀次の率いる軍勢が入り、天正一三年七月初旬に木津きづ(現鳴門市)を抜くと、一宮いちのみや(現徳島市)を秀長勢、当城を秀次勢が取囲んだ(七月二一日「羽柴秀次書状」小早川家文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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