義範(読み)ぎはん

朝日日本歴史人物事典 「義範」の解説

義範

没年寛治2.閏10.5(1088.11.20)
生年治安3(1023)
平安後期真言宗の僧。天皇家の護持僧肥後(熊本県)出身。従五位下藤原如政の子。幼時に出家し,曼荼羅寺の仁海に,次いで成尊に師事し,天喜2(1054)年伝法灌頂を受けた。やがて醍醐寺に遍智院を開き,白河天皇,堀河天皇の護持僧として活躍。霊力に優れ,承暦3(1079)年には白河天皇の寵妃藤原賢子の懐胎を愛染明王法により祈って皇子(のちの堀河天皇)出産を成就。寛治1(1087)年の大旱魃の折は勅を奉じて神泉苑(本来は平安京内での天皇遊覧の地で,空海以後は真言修法を行ずる場)で請雨法を修し霊験あった。著書に『鞭加持次第』など。弟子に勝覚らがある。<参考文献>土師原穆秀「義範・範俊の係争に就いて」(『密宗学報』57,58号)

(正木晃)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「義範」の解説

義範 ぎはん

1023-1088 平安時代中期-後期の僧。
治安(じあん)3年生まれ。肥後(熊本県)の人。山城(京都府)曼荼羅(まんだら)寺の仁海(にんがい)について真言密教をまなび,成尊(せいぞん)から灌頂(かんじょう)をうける。のち山城醍醐(だいご)寺に遍智院をひらく。応徳3年権少僧都(ごんのしょうそうず),東寺三長者。法験をもって知られ,白河天皇,堀河天皇の護持僧をつとめた。寛治(かんじ)2年閏(うるう)10月5日死去。66歳。通称は遍智院僧都。

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