日本大百科全書(ニッポニカ)「縞」の解説
縞
しま
直線または曲線を平行もしくは交差状に並べた線条文。おそらく織物の創始とともに自然偶成的に発生した模様で、あらゆる民族が用い、また各国において古代からそれぞれ独立した形で発達した。平行線の間隔の微妙な割り振りと、線の太細、色彩の組合せ方によって、この模様は実に変化に富んだ効果をもたらす。逆にこれらの微妙な関係を無視してしまえば、もともと単純な模様だけに、よけいにその単調さが目だつ結果となる。いわば平凡さと、洗練された美とが隣り合わせにある、単純にして複雑な模様であるといえよう。「縞」ということばはわが国では「島」の文字から転化したもので、16世紀の中ごろに始まった南蛮貿易を通じて、東南アジアの島々から舶来した布を「島もの」とよんでいた。ところが、この「島もの」には線条文がきわめて多くあったため、いつしかこの模様を「島」、のちには「縞」とよぶようになったといわれている。もっとも、縞ということばが生まれる以前から、「筋(すじ)」とか「間道(かんどう)」という名称があって、それに対応する遺品も、古いところでは法隆寺や正倉院などにみられる。また、これをもっと広義に解釈すれば、弥生(やよい)時代の土器や銅鐸(どうたく)の線条文をも含めることができよう。しかし、縞が織物の技法に従属した模様から、高度な美意識でもってその微妙な味わいが鑑賞されるようになったのは桃山時代以後のことである。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』に「昔ノ織筋(おりすじ)(縞)ハ横ヲ専トシテ又大筋多シ」と記されているように、桃山時代から江戸初期の縞は大柄の横縞が多かったようである。織縞では、縦縞は織り始めから準備されていなければならないのに対して、横縞は製作中に自由に色糸を挿入すればよいので、縞織りの技法からいえば、横縞のほうが容易である。横縞が最初流行した理由もこうした技術的な問題が関係しているのであろう。
その後、江戸後期になると縦縞が流行する。そして織物のほか染物、ことに粋な小紋(こもん)柄として広く庶民に愛用された。その代表的なものとして、かつお縞(藍(あい)の濃淡で色分けした太い縦縞模様)、金通(きんとお)し縞(2本の縦筋を並行させ、次に1筋間を置いてふたたび2本筋を繰り返したもの)、子持ち縞(太い筋に細い筋を配した縞模様)、碁盤縞(碁盤の目のように縦横の筋が等間隔に置かれている細かな格子縞)、千筋(せんすじ)・万筋(細い縦縞模様、千筋は万筋よりやや間隔が広い)、滝縞(かつお縞と同種、白の部分の多いものをいう)、三筋縞、よろけ縞などがある。また、洋風の縞はストライプとよばれ、個々の名称をもつ多くの縞柄がある。
[村元雄]