富岡町(読み)とみおかまち

日本歴史地名大系 「富岡町」の解説

富岡町
とみおかまち

[現在地名]阿南市富岡町

現阿南市北東部にあり、北東流する那賀なか川の支流桑野くわの(当町流域のみは琴江川とよぶ)南岸に立地する。南・西は石塚いしづか村。応安七年(一三七四)九月一二日の後円融天皇綸旨案(柳原家記録)に富岡庄とみえ、京都北野社領の同庄などに対する違乱を止め、同社別当慈昭の管領を全うするよう命じている。南北朝期から戦国期には富岡城(牛岐城・牛牧城)が築かれ、新開氏が居城した。近世になると南北に延びる同城跡の城山しろやま西方に郷町が形成され、江戸時代を通じて阿波南方みなみがたの政治・商業の中心地であった。

天正一三年(一五八五)の蜂須賀氏阿波入部後、蜂須賀家政の甥にあたる細山帯刀(のちに賀島主水正政慶と改名)牛岐うしき城に配された(「蜂須賀家記」など)。政慶はさらに同城の城代となり、慶長八年(一六〇三)には徳島藩家老に任命された(「賀嶋家系図」賀島家文書)。この間の慶長二年の分限帳では城廻とあり、細山主水佐知行分として五二四石余が記載されている。この城廻は石塚村をも含むとみられ、同九年の那東郡之内牛岐庄石塚村検地帳(阿南市役所文書)では高五二六石余とある。その後政慶が没した寛永四年(一六二七)までの間に、牛岐は運の悪い名称であるから富岡と改称したいとの度重なる政慶からの要請が容れられ、富岡と改められた(年未詳一一月一八日「蜂須賀一茂書状」御大典記念民政資料)。このとき町立ても行われたとみられる。慶長期のものと推定される国絵図では「富岡」と「石つか」がともに記され、正保国絵図では富岡町五二六石余と富岡之内石塚村とある。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では富岡町と枝村石塚村は田方二七九石余・畠方二四六石余、芝山と注記される。江戸時代前期には枝村として石塚村を抱えていたことになるが、同村のうち郷町として発展を遂げた地区が富岡として分れたといえる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では富岡町の高一一八石余。「阿波志」によれば土田は陸田一七町六反余、高一一八石はすべて采地とある。旧高旧領取調帳では一二〇石余が賀島弥右衛門、八斗余が森甚太夫の知行。

郷町としての富岡町は城山の西部を中心に発達し、寛文一二年の富岡町新町内町佃町家数人馬牛改帳と延宝二年(一六七四)の富岡裏町棟付改帳(ともに阿南市役所文書)によれば、この頃しん町・うち町・つくだ町・うら町があり、明和六年(一七六九)の富岡仲町第住町棟付帳(同文書)によると裏町はなか町・第住だいじゆう町になっている。

富岡町
とみおかまち

[現在地名]苓北町富岡

しも島北西端の富岡半島に立地する。隣村の志岐しき村境を三会みえ川が流れる。富岡半島は典型的な陸繋島で、北西の肥前野母のも半島(長崎県)に相対している。西側は頼山陽の「泊天草灘」で知られる荒々しい天草灘(東シナ海)に面し、東側は波静かなふくろ(巴湾・富岡湾)まがり崎が取囲む。肥前島原へ海上一五里、長崎へ海上二一里、熊本へ海上二〇里と陸二里の距離にあり、江戸まで海上四六四里ほどであった(文政六年「天草島富岡地勢要図」松浦家蔵)関ヶ原の合戦後、新たに富岡城が築かれ、富岡は天草統治の中心となって砂洲上に小さな城下町が形成された。

富岡半島は海に囲まれた無霜地帯で、温暖な気候に恵まれ早くから開けた地であった。袋湾の奥の元袋もとぶくろ尾越おごし春の迫はるのさこから黒曜石・須恵器が出土。古墳時代後期の出来町できまち製塩遺跡からは無数の製塩土器が出土し、半島を中心とした海人族集団の存在が推定される。袋湾を眼下にする富岡一号墳はその族長の墳墓であろう。中世の頃は袋・留岡とめおかと称される漁村であった。文亀三年(一五〇三)相良長毎が八代の古麓ふるふもと城に名和顕忠を攻めたとき、当時菊池能運配下にあった天草の八人の城主は「発舟師来援」(求麻外史)している。この八人の城主のなかに留岡(南藤蔓綿録)・富岡(求麻外史)の城主がみえ、このときの「留岡の城主」については不詳だが、志岐城に近いことから、志岐氏一族の城として発展したものであろう。一五六七年(永禄一〇)一〇月一三日付の「イルマン・アイレス・サンチェズの志岐より贈りし書翰」(イエズス会士日本通信)に「附近のフクロと称する地に赴き、わが聖教のことを説き、教を受けたる者一〇〇人に洗礼を授け」とあり、当時キリシタン伝道がこの地に及んでいたことが知られる。

「島鏡」によれば、慶長九年(一六〇四)寺沢広高は唐津から近く、しかも天然の良港であった当地に新たに富岡城を築き、この頃袋浦は富岡に改称されたという。

富岡町
とみおかまち

面積:六八・四七平方キロ

郡の中央部にあり、東は太平洋、南は楢葉ならは町、西は川内かわうち村、北は大熊おおくま町に接する。西の阿武隈高地から富岡川・紅葉もみじ川が流れ出し、その流域に集落が形成される。海岸線に沿ってJR常磐線と国道六号が縦貫している。国道六号は路線に若干の変化はあるが、中世の東海道で、寛文九年(一六六九)の「磐城風土記」には相馬路と記され、楢葉郡に入るととくに北浜きたはま通とよんだとある。明治五年(一八七二)陸前浜街道と改称された。国道六号から川内村への道が分岐している。

明治二二年の町村制施行により楢葉郡富岡村・上岡かみおか村が成立。

富岡町
とみおかちよう

[現在地名]函館市弥生町やよいちよう大町おおまち

明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際浄玄じようげん(現真宗大谷派函館別院)称名しようみよう寺・実行じつぎよう寺の三ヵ寺が並ぶ寺町が改称して成立した(「事業報告」第一編)。町域がやや小高い所にあり、町内の富貴を願って付けられた町名と伝えられている。明治九年の現住戸口は四九戸・一七三人(函館支庁管内村町別戸口表)。同一二年の大火で町域は全焼し、三ヵ寺はそれぞれ現在地に移転した。明治一四年七月に松蔭まつかげ町の一部を編入(「事業報告」第一編)。同年函館警察署が当地に新築され、また北海道初の新聞である函館新聞を発刊していた北溟社が大町から移転してきた。明治一九年には町会所が新築され、区会の議場としても利用された。

富岡町
とみおかちよう

[現在地名]江東区冬木ふゆき・深川二丁目

はまぐり町の東方に位置する町屋。東西と北は陸奥八戸藩南部家下屋敷と賄方組屋敷。元木場もときば二一ヵ町の一で深川富岡ふかがわとみおか町とも称した。文政町方書上によれば、町域一円に日蓮宗妙蓮みようれん寺があったが上地となり(年代不明)、宝永年間(一七〇四―一一)頃から町人が土地を買請けて伊奈代官支配ののち、正徳三年(一七一三)町奉行支配となった。なお町域については往古西方の富岡橋付近までを富岡町とよんでいたともいう。

富岡町
とみおかちよう

[現在地名]小樽市富岡一―二丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い稲穂いなほ町より分立、富岡町が成立。色内いろない町・稲穂町の西、朝日あさひ展望台のほぼ直下にあたる。当地はもと榎本武揚・北垣国道の所有地で、土地支配人の寺田省帰が開発を推進した。これ以降、金子元三郎邸・遠藤又兵衛邸(現立正佼成会小樽教会)など小樽政財界の重鎮らの住宅が建てられた(富岡町史)。大正九年の世帯数五四〇・人口二千六八一、同一四年の世帯数一千三九・人口四千八六七(小樽市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富岡町」の意味・わかりやすい解説

富岡〔町〕
とみおか

福島県東部,太平洋にのぞむ町。 1900年町制。 55年双葉町と合体。古代の遺跡が多い。鎌倉・室町時代には岩城領の北端に位置し,相馬藩 (→中村藩 ) との領有をめぐる紛争地であった。江戸時代にも領有はめまぐるしく変遷。中心地区は富岡川の南岸にあり,陸前浜街道の宿駅から発展。 JR常磐線,国道6号線が南北に通り,富岡駅周辺には国や県の出先機関が多い。主産業は農業と工業で,南部海岸の楢葉町境には東京電力福島第二原子力発電所がある。面積 68.39km2。人口 2128(2020)。

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