紙漉所跡(読み)かびしちどうくるあと

日本歴史地名大系 「紙漉所跡」の解説

紙漉所跡
かびしちどうくるあと

[現在地名]那覇市首里山川町一丁目

首里城の北西山川やまがー村に設置されていた王府管理の製紙場。ヤマガーカビシチドゥクルとよばれる。「琉球国由来記」によれば康熙二五年(一六八六)関氏大見武筑登之親雲上憑武が薩州に行き、草野五右衛門について杉原紙・百田紙の漉法を学び、帰国後同三三年に紙漉主取に任じられ琉球国において紙漉を開始したという。「南島風土記」ではこの時に紙漉所が山川村に設置されたとしている。「球陽」附巻尚貞王二七年(一六九五)条には、薩州で造紙法を学んで帰国した関忠勇が康熙三三年に造紙長(主取)に任じられて自宅で紙を製造した。翌三四年に金城かなぐしく村の大樋川うふひーじやー辺りに宅地を与えられて移居し、ここで紙を製造したとある。

紙漉所跡
かみすきじよあと

[現在地名]西区城西二丁目

川の東、御馬冷おうまひやし筋の南にあたる。寛文一一年(一六七一)辰巳市右衛門が二代藩主徳川光友から藩用の紙漉所と一〇人扶持を与えられ、この地で業を始めた。製品のうち黒印紙および采配紙は藩主の専用に属し、製法は秘伝とされた。前者は檀紙の一種で、家臣に発給される知行状に用いられ、後者は細い帯状に切って指揮に用いたが、破れにくいうえに音が高く鳴るのを特色とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報