篠川村(読み)ささがわむら

日本歴史地名大系 「篠川村」の解説

篠川村
ささがわむら

[現在地名]朝日町笹川ささがわ

笹川の谷を一里ほどさかのぼったところにあり、北は宮崎みやざき村・横尾よこお村、東は大平だいら村、西から南にかけて南保なんぼ村・石谷いしたに村。村を開いたのは竹内長井・小林・堀内・深松・宇津らの七人という伝承があり、七人の同苗と称していた。同苗は先住権として一同苗に米七升ずつ村から納めさせ、家名の売買はその権利の譲渡であった(笹川史稿)

篠川村
しによほむら

[現在地名]瀬戸内篠川しのかわ

小名瀬くなぜ村の北に位置し、集落は瀬戸内の深い入江(篠川湾)に臨む。東に烏帽子えぼし山がある。西にし間切西方のうち。シニョホという。「大島私考」に西方一五ヵ村のうちとして「篠川村」とみえ、高一七四石余、うち享保内検後の開地は三石余、役屋敷分二斗余。琉球王の王舜天の血を引くという当地の芝実統家は初代芝好徳(正徳四年生れ)のとき四〇万斤の砂糖を献上、また奄美で初めて毛織物や大銃の鋳造を試みている。

篠川村
ささがわむら

[現在地名]織田町笹川ささがわ

織田盆地北端の谷あいにあり、東は下糸生しもいとう(現朝日町)、南は岩倉いわくら村・細野ほその村。享禄二年(一五二九)五月日付大谷寺所々神領坊領目録(越知神社文書)に「五百文 在所山方内北畑ニ在之 作人篠川正通」とみえ、慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「さゝ川村」高一四二・七二石と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報