筑紫国(読み)つくしのくに

日本大百科全書(ニッポニカ) 「筑紫国」の意味・わかりやすい解説

筑紫国
つくしのくに

「竺志国」とも表記される。広義には九州全域をさすこともあるが、一般には筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)の二国をいう。九州(西海道(さいかいどう))は、初め筑紫(つくし)、豊(とよ)、火(ひ)、日向(ひむか)の四国であったが、のちに筑前・筑後、豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)、肥前(ひぜん)・肥後(ひご)、日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)の九国(九州)となる。つまり、筑前・筑後に分国する以前の行政区画である。『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇2年(698)条に筑前国(つくしのさきのくに)の名が初見するので、7世紀末ころまで筑紫国が存在していたことになる。筑紫国には大宰府(だざいふ)が置かれ、那(な)ノ津(つ)を控えているように、大陸の門戸としての重要な位置を占めていた。また大化前代には筑紫君という大豪族が蟠踞(ばんきょ)し、一大勢力を形成していた所でもあった。

[井上辰雄]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「筑紫国」の解説

筑紫国
つくしのくに

現在の福岡県のうち旧豊前国(周防灘沿岸)部分を除いた地域にあった国。「古事記大八島(おおやしま)生成の段に筑紫島の1国として豊(とよ)・肥(ひ)・熊曾(くまそ)3国と並べ記すほか,「日本書紀」継体紀に筑紫国造筑紫君磐井(いわい)の記事を載せ,安閑紀にも豊・肥両国とともに屯倉(みやけ)が設定されたとみえる。7世紀末に分割されて筑前・筑後の両国になる。なお地域名称としての筑紫はより広く,豊・肥両国もしくはその後身にあたる豊前・豊後・肥前・肥後の4国を含む場合や,これに日向国を加える場合,さらには現在の九州全体をさす場合がある。

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世界大百科事典(旧版)内の筑紫国の言及

【筑後国】より


【古代】
 西海道に属する上国(《延喜式》)。古くは筑紫国の一部であったが,律令制の成立とともに前後に分割され,その当初は筑紫後(つくしのみちのしり)国と称され,ついで筑後国となった。三潴(みぬま∥みむま),御井(みい),御原(みはら),山本,竹野(たかの),生葉(いくは),上妻,下妻,山門(やまと),三毛(みけ)の10郡を管し,国府・国分寺は御井郡(久留米市)に所在した。…

【筑前国】より


【古代】
 西海道に属する上国(《延喜式》)。古くは筑紫(つくし)国と呼ばれたものが,7世紀末の律令制成立とともに筑前・筑後の2国に分割された。当初は筑紫前(つくしのみちのくち)国と呼ばれ,702年(大宝2)の嶋(志麻)郡川辺里戸籍に筑前国の名が初見される。…

※「筑紫国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」