笹川村(読み)ささがわむら

日本歴史地名大系 「笹川村」の解説

笹川村
ささがわむら

[現在地名]郡山市笹川・安積あさか安積町笹川あさかまちささがわ安積町あさかまち長久保ながくぼ安積町あさかまち南長久保みなみながくぼ安積町あさかまち吉田よしだ成山町なりやままち長久保ながくぼ

日出山ひでのやま村の南、阿武隈川西岸の平地に立地。佐々河・佐々川・篠川とも書く。奥州道中の宿駅で、守山もりやま村を経て磐城への道が分岐する。

元弘三年(一三三三)七月の石河光隆着到状(秋田藩家蔵赤坂光康文書)に「佐々河城」がみえ、光隆が同城に拠り塩田陸奥禅門の子息らと戦っている。観応三年(一三五二)多賀たが国府を落し、敗走する南朝方を追撃する北朝方吉良貞家を大将とする石河兼光・伊達左近将監らは、四月二日の佐々河合戦では劣勢だったようで、左近将監は討死している(同年一〇月一七日「足利尊氏感状」伊達家文書など)。四月末より部屋田(日和田)に陣を取って態勢を立直した貞家らは六月二日当地へ軍勢を進め、七月三日阿武隈川を越えて田村庄宇津峰うづみね城の南朝方攻撃を開始した(文和二年五月日「佐原宗連軍忠状」小荒井文書)

笹川村
ささがわむら

[現在地名]高岡市笹川・千鳥丘町ちどりがおかまち

高田島たかたじま村の南に位置し、南は下老子しもおいご(現福岡町)新又あらまた川が西部を北流し、小矢部おやべ川に注ぐ。篠川とも記した。天正一三年(一五八五)九月一九日の鮭川役申付状(西照寺文書)によると、前田利家は「さゝ川村」の鮭川役を定めた。翌一四年八月一三日、前田利勝は「篠河村」に対し、市を二・四・七の日の九斎市とすること、押買・押売の停止、国質・所質の禁止などを定めており(「制札」西照寺蔵)、古くから開けていたが、加賀藩による宿駅整備以降、北陸街道に沿う単なる農村となった。

笹川村
ささがわむら

[現在地名]柳田村笹川

町野まちの川中流、上町かんまち川が流入する地点の南に位置し、西は柳田村、北は石井いしい村、南は寺分てらぶん村・天坂てんざか村。村内に留水たむしや(溜水)家中いえなか二又島ふたまたしま余井よのいの字名があるという(鳳至郡誌)。元和八年(一六二二)の谷内村百万・麦生野小辻山論裁定状(麦生野区有文書)の裁定人中に「さゝ川村あせち」の名があり、寛文八年(一六六八)の入会山分定書(同文書)には「篠川村あせち」がみえ、古くは篠川村と記したと思われる。正保郷帳には村名がなく、柳田村のうちに含まれている。承応三年(一六五四)の村御印では高三四三石余、免三ツ九分五厘(能登奥両郡収納帳)

笹川村
ささがわむら

[現在地名]飯山市大字あさひ

山口やまぐち村の北、富倉とみくら峠道の登り口にある村。篠川村とも書く。正保四年(一六四七)信濃国絵図高辻に「高百八拾壱石余 篠川村」と記す。南条五ヵ村の一。

笹川村
ささがわむら

[現在地名]山北町笹川

西流する笹川河口右岸にあり、西は日本海に面する。北は板貝いたがい村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分篠河村 下」とみえ、「本納合百俵塩 塩壱斗」、縄高九石二斗九升、家四軒とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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