笠間東保(読み)かさまひがしほ

日本歴史地名大系 「笠間東保」の解説

笠間東保
かさまひがしほ

たんに笠間保、東笠間保ともみえ、現宮保みやぼ町・法仏ほうぶつ町・黒瀬くろせ町付近に比定される。南西に西笠間保があり、両保とも「和名抄」石川郡笠間郷の郷名を継承したものとみられる。

白山本宮神主職を世襲した上道氏のなかで、七世氏盛が官保入道と称し、その嫡子氏元(仁治二年七月八日没)が笠間新太郎大夫、三男氏則も笠間三郎を名乗り、その子孫が八代にわたり存続しているところから、鎌倉中期以後、笠間氏が当地に根拠を置いたものとみられる。正嘉二年(一二五八)三月、白山宮住明徳丸が国衙に当保内の白山宮大般若田一町の奉免を申請して認められ(「白山宮住明徳丸申状」南禅寺文書、以下同文書は省略)、以後弘長元年(一二六一)五月二三日、文永三年(一二六六)四月にも同様の申請が重なり(明徳丸解案)、乾元二年(一三〇三)閏四月八日、法仏がこの神田一町を重代相伝として安堵された(笠間東保検注使安堵状案)。これに先立ち、正安四年(一三〇二)一一月二二日、幕府は地頭得橋介跡の加賀国得橋とくはし郷・笠間東保などを筑前国宗像むなかた(現福岡県玄海町)に代えて亀山上皇に進め(関東御教書案)、これをうけて乾元元年一二月二一日に亀山上皇院宣によって京都南禅寺に寄せられた。

延慶二年(一三〇九)六月二〇日に注進された笠間東保地頭内検田数目録案によると、惣田数七二町五代で、寺田八反・神田三町八反一〇代・公田二町・川成七反三〇代・人給九反二〇代・公事料田四町・田成畠八反五代・井料田七反・新溝代二〇代を除き定田五八町一反二〇代であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報