米永村(読み)よねながむら

日本歴史地名大系 「米永村」の解説

米永村
よねながむら

[現在地名]栗野町米永

木場こば村の南西、川内せんだい川の左岸に位置する。栗野郷の宗廟正若宮八幡社(現勝栗神社)が鎮座し、加久藤かくとう筋が縦断する。古くは栗野村といったが(三州御治世要覧)、元禄九年(一六九六)頃以降に米永村と改めた(「栗野踊溝辺横川廻勤雑記」地誌備考)。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には栗野院南里のうちに「米永 十六丁七段半」とみえ、一丈六尺七寸五分の石築地役を負担しており、郡司貞高の所領であった。なお同写には「恒次・重武・恒山 十二丁一段三百歩」もみえ、うち重武しげたけは地内山崎やまさき地区の通称として残る。

米永村
よねながむら

[現在地名]松任市米永町

宮丸みやまる村の西に位置し、山島やまじま用水の分流みなみ川が貫流する田園地帯。中世には米永保が成立。正保郷帳では高一千二三石余、田方六五町七反余・畑方二町五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(米永区有文書)では高一千五三石、免五ツ五歩、小物成は油役八匁。寛文年間の家高数一〇・百姓数二九(高免付給人帳)。「皇国地誌」によると家数六二・人数二八五。産土神は米永菅原神社。古くは少彦名命などを祀り大宮と称したが、延長年間(九二三―九三一)に焼失後、理正坊なる僧が天神と合祀して復興したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報