笠縫村(読み)かさぬいむら

日本歴史地名大系 「笠縫村」の解説

笠縫村
かさぬいむら

[現在地名]大垣市笠縫町・宿地町しゆくじちよう

大垣輪中西部杭瀬くいせ川左岸に位置し、南は一色いつしき村。地名きぬがさをつくる笠縫部の部民がいたことによるという(新修大垣市史)。東に枝郷宿地がある。正治二年(一二〇〇)四月日の美濃国在庁官人等解状案(京都大学蔵東大寺文書)に「笠縫堤」とみえ、「水難所々絵図一帖」を副進して、東大寺領大井おおい庄が笠縫堤の修固免除の院宣を下された不当性を訴えている。これによると、同堤は単なる洪水除けではなく、同地より大井庄への灌漑用水を取入れる役割を果していたことが知られる。永仁四年(一二九六)には津布良つぷら庄堤の修理が大井庄などとともに、当地に命じられている(同年九月二五日「関東御教書案」東大寺図書館蔵)

笠縫村
かさぬいむら

[現在地名]飯能市笠縫・東町あずまちよう柳町やなぎちよう栄町さかえちよう

岩沢いわさわ村の西、入間いるま川左岸に位置し(一部は右岸)、西は川寺かわでら村。加治かじ領に属した(風土記稿)。永禄年間(一五五八―七〇)と推定される六月三日の北条氏康判物(山口県金子文書)によると、氏康は金子大蔵少輔(家長)・同新五郎(充忠)本領を安堵するとともに新恩一五〇貫文を宛行っているが、そのなかに「河寺笠縫之村」の一〇貫文が含まれている。田園簿によると高は田方五石余・畑方一〇七石余、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高一九三石余。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。延享三年―天保三年(一七四六―一八三二)間は三卿の一の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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