大井庄(読み)おおいのしよう

日本歴史地名大系 「大井庄」の解説

大井庄
おおいのしよう

古代から中世まで存続した奈良東大寺領庄園。旧安八あんぱち郡、現在の大垣市の中心部に位置した。同領の厚見あつみ茜部あかなべ(現岐阜市)とともに東大寺にかかわる関係文書が数多く残り、庄園研究史上、著名な庄園の一つに数えられる。庄域は杭瀬くいせ(かつての揖斐川本流)左岸の平坦地にあたる。なお大井庄に関する史料のうち、「岐阜県史」史料編古代中世三に収録されているものは、所蔵先・集合文書名を省略した。

〔成立過程〕

一一世紀、庄園整理を実施しようとする国衙との争いの過程で、東大寺は天平勝宝八歳(七五六)に聖武天皇によって勅施入されたと主張し、保延二年(一一三六)七月二五日の文書撰進目録にも「一通 大井庄天平勝宝八歳七月十三日勅書一枚」とみえるが、詳細は不明。天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸・庄園并寺用雑物目録には「美濃国安八郡大井庄五十二町九段百八十歩」とみえる。承和一四年(八四七)の坪付には「四至内見地弐佰伍拾町、内見作伍拾町参段」、天延元年(九七三)の寺家用途帳には「田伍拾町」とあることから(延久三年六月三〇日太政官牒案)、九―一〇世紀には見作田五〇町余の庄園として存続していたらしい。

〔庄園整理令と大井庄の確立〕

大井庄が古代的な庄園から中世に生続ける庄園として確立するのは、一一世紀後半から一二世紀のことである。中央政府の庄園整理政策、それをうけた国司による庄園収公の圧力と、それに対抗する東大寺との争いを経ることによって、中世的な庄園として確立する。国司による大井庄収公の動きは、長暦年間(一〇三七―四〇)に国司大江定経によって大井庄が収公され、造内裏役・防鴨河役および臨時雑役が賦課されたことが早い例である(長久元年一二月二八日官宣旨案)。その後、国司源頼国も庄田一〇余町を収公、御馬逓送・相撲使供給などの臨時雑役を大井庄の住民に賦課し、次の国司高階業敏も三〇町余の見作田を収公し、かつ造内裏役などの課役を賦課している(天喜二年二月二三日官宣旨案)。以上の国司側の動きは、長久元年(一〇四〇)の庄園整理令などと連動しており、造内裏役などの造営役を一国平均役として臨時雑役が免除されていた庄園にも一率に賦課するという朝廷の政策変更を背景にしていたと考えられる。東大寺はこの国司の動きを朝廷に上訴し、その都度、免除の特例を認められた。造内裏役免除の対象となった田地は官物が免除される本免田のみで、庄園の四至内に存在する公田は除外されていなかったが、本免田数についての見解は国司側と東大寺側とでは異なっていたため(東大寺側が国司側より大きい数字を示す)、免除の田数をめぐっての争いが続くことになった。

大井庄
おおいのしよう

甲府盆地の西部、古代の巨麻こま大井郷(和名抄)の地に成立した庄園で、ほぼ現在の甲西こうさい町・増穂ますほ町を中心とする地域である。「中右記」元永二年(一一一九)二月二三日条に「早旦遠江前司基俊来、談万事之次相語云、在甲斐国庄名大井本名布施、件庄相伝所知也、而可此権守宗重女房也者、庄司菅野成兼也、件男近日行向播磨守基隆許云々、甚不安者也」とある。従前の郷土史書がこの遠江前司基俊を「中右記」の筆者藤原宗忠の叔父基俊に比定し、大井庄を藤原道長の庄園であったとし、次男頼宗が中御門家として分家するとき父より分与され、子俊家より三男基俊に伝領されたとしたのは誤り。この基俊は遠江守源基俊のことで、彼が祖先から伝領してきた大井庄を自分の娘である宗忠の三男宗重の妻に譲与しようとしたのである。また注記の「本名布施」の解釈についても諸説があるが、大井庄は布施ふせ庄を本庄とする新庄として設定されたものと解することができる(増穂町誌)。しかし源基俊はいわゆる受領層に属する中級貴族であるから、彼が保持していたのは領家職で、その上に本家として摂関家、おそらく母が乳母を勤めた忠実をいただいていた可能性が考えられる。

大井庄
おおいのしよう

吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の「関東知行国々内乃貢未済庄々」の中に「八条院御領大井庄」とみえるのが初見。「和名抄」の「信濃国」中にある佐久郡「大井」との境域的なかかわりは明らかでないが、当初の大井庄はこの「大井」の中心地とされている岩村田いわむらだ(現佐久市)近辺であったと考えられている(北佐久郡志)

弘安二年(一二七九)新善光しんぜんこう(現甲府市)に寄進された銅鐘(南佐久郡小海こうみ町諏訪神社蔵)に「信州佐久郡大井庄落合」とあり、嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)には安原やすはら香坂こうさか長土呂ながとろ塚原つかばら(ともに現佐久市)南市みなみいち(現小諸市)等岩村田付近とその近郷の矢島やしま(現浅科あさしな村)東布施ひがしふせ・西布施もたい(ともに現望月町)崎田さきだ(現南佐久郡八千穂やちほ村)田口たのくち郷(現南佐久郡臼田うすだ町)等の名がみえて境域の広がりを示す。

大井庄
おおいのしよう

足柄平野の北部東側、現大井町一帯を中心とした荘園。「吾妻鏡」文治四年(一一八八)六月四日条所載の五月一二日付の後白河法皇院宣に「相模国大井庄事 延勝寺領也、於年貢者、早可寺家」とあり、法皇から鎌倉の源頼朝に対して年貢の上進が催促されている。延勝えんしよう寺は久安五年(一一四九)近衛天皇の御願寺として京都白河しらかわに建立された寺であるから、荘園として成立したのもその頃であろうか。

建保元年(一二一三)の和田合戦までは和田義盛にくみした者が地頭であったらしく、戦後は没収されて幕府の有力者二階堂行村に与えられた(「吾妻鏡」同年五月七日条)

大井庄
おおいのしよう

「和名抄」賀陽郡大井郷の郷名を継ぐものか。足守あしもり川左岸の現大井を遺称地とし、一帯に推定される。鎌倉末には庄内に清水寺があった(正中二年上願寺鐘銘)。嘉応元年(一一六九)の足守庄図(神護寺蔵)の北境に「大井御庄堺藤木山」とあり、山城神護じんご寺領足守庄の北に隣接していた。貞応二年(一二二三)四月八日、幕府は将軍祈祷料所として前天台座主の慈円に与え、慈賢に伝えられた(華頂要略)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報