竹生村(読み)たけぶむら

日本歴史地名大系 「竹生村」の解説

竹生村
たけぶむら

[現在地名]小川村高府たかふ夏和なつわ花尾はなお上野うえの

大町おおまち(現県道大町線)に沿った街村と周辺の散村を包含した村。東は伊折いおり村・青木あおき村・奈良尾ならお(現中条村)と西は小根山おねやま村・瀬戸川せとがわ村と土合どあい川で境し、南は越道こえどう(現信州新町)と山頂をもって境し、北は和佐尾わさお(現小川村)と境する。

村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で、「千百三拾七石七斗三升五合 竹生村」とある。元和年間(一六一五―二四)竹生村・夏和村・上野村長尾ながお村の四ヵ村に分離した(上水内郡村誌)

竹生村
たけなりむら

[現在地名]鳥取市竹生

上味野かみあじの村の南続き、千代川左岸の微高地上に位置する。当村の東、千代川との間に邑美おうみ向国安むこうくにやす村があり、西方大井手おおいで川が北流する。竹成とも記され(因幡民談記)村外れには因幡小鍛冶景長なる名工に由来すると伝える小鍛冶屋敷こかじやしきとよばれるところがある(因幡志)。拝領高は三六四石余。慶安三年(一六五〇)五月一五日の年貢免状(竹生区有文書、以下年貢免状はすべて同文書)によると村高三九七石余で免六ツ、川役銀一四匁・犬役米一斗九升五合を課されており、片山・塩川両氏の給地で蔵入地はない。同年秋に「立毛悪敷田方」の年貢若干が控除された。承応二年(一六五三)の年貢免状では、村高・小物成・給人は同じで免五ツ五分。同年秋に「田方悪敷ニ加損」と「地百姓草臥ニ遣」が控除された。両者合せて五月の免状発行時に予定された物成の約一割二分に相当し、同年は不作であったらしい。

明暦二年(一六五六)の年貢免状では村高などは同じで免五ツ四分。秋に「地百姓草臥ニ遣」物成若干が控除された。別に「当秋弐分上米」が徴収され、免は実質五ツ六分となった。これは藩内に一様に課されたものと考えられ、同年の藩全体での作況は良好であったと考えられる。寛文一一年(一六七一)の年貢免状では開高二三石余が加えられ、永荒高を差引いた生高四一四石余、免は五ツ四分。川役は変わらないが、犬役米が二斗一升一合に増加した。開高は給人両名にいちおう付けられているが、物成はすべて蔵入となっている。同年秋に「立毛悪田ニ遣」と「草臥ニ遣」が控除された。前者の控除率は二割に達し、原因は不明だが凶作であった。

竹生村
たこうむら

[現在地名]能代市竹生

大間越おおまごし街道沿いにある。南に須田すだ村があり、西は日本海。北から西に田地が広がり、東は東雲しののめ台地となる。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「弐百七拾四石九斗三升六合 すた村 たかう村」とある。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)によると「かけゆ左衛門」が鑓衆として配されていた。「本館落城記」によれば、同一〇年に八森本館はちもりもとだて(現山本郡八森町)で城主武田重右衛門に対し、浜田はまだ(現八森町)の農民が一揆を企て、竹生村の勘解由らが指導的役割を果した。

竹生村
たこうむら

[現在地名]清水町竹生・グリーンハイツ

志津しづ川と日野川の間に広がる三方みかた丘陵の北西麓にある。北から西にかけては猿和田さるわだ村に接する。志津川下流域の低湿地帯にあるため、「なんば」とよばれる田下駄をはいて農作業をしたといい、志津川東岸の丘陵地北側の水田を水害から守るために囲堤を構築した。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では三戸部みとべ郷に含まれる。寛永元年(一六二四)一一月一九日付の南江守みなみえもり(現福井市)山崎九兵衛へ宛てた真杉吉家免状(山崎文書)に「竹生山」がみえ、水鳥を網で捕らえる坂鳥打の猟場があった。

竹生村
たけじようむら

[現在地名]野洲町竹生

野洲川の北流と南流(本流)によって形成された中洲である竹生島とやなぎ島を合せた地。南は市三宅いちみやけ村。川田かわた(現守山市)の一集落で、竹生以外の三集落は野洲川南流西岸にあった。山城淀藩領一三石・大溝藩領九石余の二給。ただし竹生島と柳島を合せた七町九反余の地は屋敷地のほかは畑地・林藪地しかなく、水田高一二一石余分はすべて市三宅村の陸奥仙台藩領と旗本斎藤領へ出作していた。このように水田耕作のすべてを出作に頼ることは珍しく、野洲川筋の変化による事情があるのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報