立屋敷村(読み)たてやしきむら

日本歴史地名大系 「立屋敷村」の解説

立屋敷村
たてやしきむら

[現在地名]水巻町立屋敷一―三丁目など

えぶり村の南、遠賀川(大川)の下流右岸に位置する。東は下二しもふた村、西は遠賀川を隔てて広渡ひろわたり(現遠賀町)集落本村垣生地はぶちの二ヵ所(地理全誌)。古くは館屋敷と記した(続風土記・続風土記拾遺)。かつては広渡村の枝郷であったが、寛永年中(一六二四―四四)に行われた遠賀川治水工事で、広渡村と当村の間を流れていた遠賀川分流の一つが、川幅を拡幅されて本流となり、その後広渡村から分村した。ただし分村後も同村の枝村として扱われた(同上)。田圃志に村名がみえ、元禄五年(一六九二)には高二七七石余(うち畠高一五石余)、家数二三・社一・寺一、人数一一九。石高書上帳案の郡帳高も二七七石余。村内には福岡藩主の猟場が設けられていた(水巻町誌)。寛文一〇年(一六七〇)に当村庄屋蔵富吉右衛門が鯨油を田に入れて蝗を駆除することを始めたとされる。当初この除蝗法を用いる者はほとんどいなかったが、宝暦(一七五一―六四)頃から遠賀郡などで用いられるようになり、のちに西国全域に広まったという(岡郡宗社志・続風土記拾遺)。享保飢饉では享保一七年(一七三二)一〇月から翌年三月にかけて、当村の総人数一二六人のうち四二人が餓死している(岡郡宗社志)。年貢米などは遠賀川土手の船場から積出し、福岡藩貢米蔵の修多羅すたら(現北九州市若松区)移転後は芦屋船で遠賀川・川を経由して修多羅若松わかまつ(現同上)に送った(天明七年「年貢納方」甘木市立図書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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