窪川村(読み)くぼかわむら

日本歴史地名大系 「窪川村」の解説

窪川村
くぼかわむら

[現在地名]窪川町窪川・新開しんかい町・茂串しげくし町・ほん町・ひがし町・榊山さかきやま町・琴平ことひら町・香月が丘かげつがおか北琴平きたことひら町・古市ふるいち

四万十しまんと川の左岸にあり、仁井田五人衆の一人窪川氏の本拠地。仁井田にいだ庄に含まれ、「南路志」所収の「仁井田郷談」によれば、当村と付近の一二ヵ村を窪川郷といい、当村は窪川郷の中心として本郷ほんごう村ともいわれた。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳では村域の地積は四三町余、ヤシキ六九筆で窪川分。

江戸時代前期には土佐藩家老窪川山内氏の知行地となり、元禄地払帳によれば総地高五〇三石余で、うち本田高三九七石余は山内常之介知行と岩本いわもと寺領および仁井田大庄屋給、新田高一〇六石余は七石余が貢物地で残りは山内常之介の知行・役知。寛保郷帳によると戸数一二三、人口四六一、馬四五、牛五。

窪川村
くぼかわむら

[現在地名]十和村久保川くぼかわ

細々さいさい村の北方笹平ささひら(一〇三四・四メートル)に源を発する久保川川が南流して四万十しまんと川に合流する地点(四万十川北岸)を中心に展開する村で、上山かみやま下分しもぶん一村。通称地名に峠駄場とうのだば陰地かげじ日の地ひのじがある。「土佐州郡志」は「東限四手村界花森、西限小野村、南限天日畝、北限大道村大森、東西三十町南北三十五町、戸凡二十三、其土黒交砂」と記す。

慶長二年(一五九七)上山郷地検帳に「小野内窪川村」とみえ、当時は小野おの村を構成する一村であった。元禄郷帳によると本田高五五石余。寛保郷帳によれば家数一九、人数一二四、馬一一、牛二、猟銃四。

窪川村
くぼかわむら

[現在地名]葉山村久保川くぼかわ

鶴松森かくしようもりの東に連なる山地に源を発し、南流して姫野々ひめのの村で新荘しんじよう川に合流する窪川川に沿い、その東南上井田かみいた谷をも含む。天正一六年(一五八八)の津野半山地検帳によれば、窪川谷は地積五町五反余、ヤシキ一九筆で、津野氏家臣市川平三兵衛ら八人の給地と良徳りようとく院・聖音しようおん院領などからなり、上板かみいた谷は地積二町余、ヤシキ七筆で、市川藤介ら四人の給地と長林ちようりん寺領であった。

窪川村
くぼかわむら

[現在地名]中村市久保川くぼかわ

勝間かつま村の東北、四万十しまんと川左岸の村。久保川とも記され(西郡廻見日記)近代以降は久保川の表記が定着した。「土佐州郡志」は「中村ノ西ルコト四里許、東西三十町南北一里許、東接鵜野江村・田出之川村・鴨川中半村・口屋内村、西接勝間村、戸凡二十」と記す。川登かわのぼり村の枝郷。

天正一八年(一五九〇)の川登九村地検帳に上窪川村・下窪川村がみえ、両村合せて検地面積二一町一反余、屋敷数一四うち居屋敷八。屋敷のうちには泉福寺が含まれる。江戸時代は元禄郷帳による本田高一六一石余。寛保郷帳によれば家数四一、人数一五七、馬一一、牛二、猟銃四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報