神蔵庄(読み)かみくらのしよう

日本歴史地名大系 「神蔵庄」の解説

神蔵庄
かみくらのしよう

〔立地〕

熊本市の白川左岸のうち、水前寺すいぜんじ江津えづ湖の大涌水地帯の西部に広がる、旧国府(託麻国府)を含み、条里の遺構をもつ平闊広大な熊本平野の水田地帯に位置した、最勝光院を本家とする王家領荘園で、託麻たくま郡のうちの託麻西郷の大部分を占めていた。神倉庄とも書かれ、荘名の由来は、大化前代の春日部かすがべ屯倉、そして「和名抄」郷名の三宅みやけ郷に求めうるかもしれない。

〔成立〕

荘の成立はおそらく建久五年(一一九四)と考えられるが、それにさきだち神蔵庄・安富やすとみ庄に分化する以前には、託麻庄という郡名庄の存在が確認される。欠年であるが、鎌倉期の内容を示していると思われる「国内郡郡之内郷郷之内庄庄内名」と題する詫麻郡所領注文(詫摩文書)には、「詫麻西郷庄々」として、「新庄 神蔵庄内田数七百十六町五段」「本庄 安富庄田数百五拾九町八反」それに「八王子庄三十八丁」が載せられている。そして神蔵庄は二八、安富庄は三つの名が書かれているが、そのうち枝吉名は両庄にまたがっている。そしてこの枝吉名は、建久一〇年三月一五日の山本南荘下司宗形氏綱田畠売渡状(同文書)によると、条里地域の九町七反の田地と、漆嶋うるしま郷内土土呂木とどろき村の畠地よりなるもので、建保六年(一二一八)四月二一日の和毛三子譲状(同文書)によると「詫麻御庄内」であった。以上のことから、少なくとも安富庄・神蔵庄の荘域を含んで託麻庄という郡名庄が存在し、その分化として両庄が成立したと判断される。神蔵庄の史料上の初見は建久一〇年であるが、建久二年一〇月日の長講堂所領注文(島田文書)には、肥後国分として六箇ろつか庄・豊田とよだ御厨(益城郡)とならんで安富御領がみえる。安富御領は安富庄につながると思われるから、安富御領は託麻庄の一部、ないし託麻庄の別称であったと推定される。とすると、建久二年から一〇年の間に、王家領の託麻庄が再編され、安富庄の本庄に対し、神蔵庄が託麻新庄として成立したことになる。

ところで前記の詫麻郡所領注文には、託麻東郷のうちに健軍宮領として「片寄百四拾弐丁五反本家源少将入道預所北条殿」とある。これは阿蘇本末社領の預所職を獲得した北条時政の主導のもと、内乱によって国衙による保証が困難となった託麻郡内の健軍社の浮免田・例下米等の代りに、片寄かたよせ(地域的に集中化すること)による所領の確立(定免化)を図ったもので、建久五年閏八月一五日の宣旨に基づいて行われたものであった(建久六年三月日「甲佐社領文書案」など、阿蘇家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報