安富庄(読み)やすとみのしよう

日本歴史地名大系 「安富庄」の解説

安富庄
やすとみのしよう

熊本市の白川左岸、本荘ほんじよう町辺りを中心に鎌倉時代に存在した王家領(長講堂領)荘園神蔵かみくら庄と隣接入組んでおり、南北朝期の文書には鳥栖とりのす里・依津えづ里・蚕飼こかいなどの地名も安富庄内としてみえ、のちには神蔵庄の一部とみなされるに至る。両庄とも本来は託麻たくま庄のうちであったとみられ、神蔵庄を託麻新庄というのに対し、安富庄は託麻本庄とよばれた。本荘町の町名もこれに由来するものと思われる。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂所領注文(島田文書)に、六箇ろつか庄・豊田とよだ御厨(益城郡)とともに「安富御領 不勤之元三雑事 御簾二間 御座一枚小文」とみえる。

安富庄
やすどみのしよう

荘域は現金立きんりゆう町大字千布ちふ久保泉くぼいずみ町大字かみ和泉いずみ・下和泉一帯から佐賀郡富士町・大和やまと町にまで及ぶ地域であった。すなわち応永三年(一三九六)八月二一日の源調田地寄進状(河上神社文書)に「安富和泉村」とあり、同三三年九月六日の常見家長田地寄進状(実相院文書)に「佐嘉郡安富庄千布村東名之内」とあって、地域をある程度比定できる。

後白河法皇の建立した長講堂領でもあったらしく、建久二年(一一九一)の長講堂所領注文(島田文書)に年々の貢進物として「元三雑事 不勤之御簾二間 御座一枚 小文ゝ」と記され、「不勤之」と注記してあるので実際は負担をしなかったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報