石関村(読み)いしぜきむら

日本歴史地名大系 「石関村」の解説

石関村
いしぜきむら

[現在地名]江刺市稲瀬いなせ

倉沢くらさわ村の西に位置し、北上高地西端部の丘陵に立地。中央を口内くちない川が南流し、当村南部で広瀬ひろせ川と合流する。口内川流域に狭長な平地が開けている。当地熊野神社付近から「高勝寺 長承四年」と刻された納経用石櫃が出土し、当地に高勝こうしよう寺があったと推定されている。戦国時代には茶臼ちやうす城に石関左近が拠った(仙台領古城書上)。同城跡は新田しんでんにあり、比高三〇メートルの山頂に立地し、頂部は八〇×七〇メートルの郭をもち、下方に帯郭二段、北方に堀がある。

正保郷帳に村名がみえ、田二〇貫四一二文・畑五貫三七文、ほかに新田四貫八六二文がある。「安永風土記」によれば田三〇貫八文・畑六貫三九文で三三貫一九文は蔵入、ほかは給所。

石関村
いしぜきむら

[現在地名]矢板市石関

大槻おおつき村の北に位置する。近世はおおむね喜連川藩領。慶安郷帳では高九二石、田方六三石余・畑方二八石余。元禄郷帳では高二〇五石余、旧高旧領取調帳では高三一四石余。天保年間(一八三〇―四四)の家数一九(改革組合村)。明治七年(一八七四)の人数一五九(「村高戸数人員取調帳」漆原長四郎文書)。南の肘内ひじうち(現塩谷郡塩谷町)とは境界相論が起き、貞享二年(一六八五)には境塚改絵図(富川重郎蔵)も作成され、享保二〇年(一七三五)には境界間数一六六間に杭一七本を立て境界を定めている(「引替証文」富川重郎文書)

石関村
いしぜきむら

[現在地名]前橋市石関町

桃木もものき川左岸にあり、北は上泉かみいずみ村・小泉こいずみ村、西から南は東片貝ひがしかたかい村、東は堀之下ほりのした村。上泉村との境に女堀の遺構がある。集落は村の北部にあり、南部平坦地に水田が広がる。寛文郷帳に田方二四一石九斗余・畑方七八石九斗余とある。天明二年(一七八二)の前橋藩領村々明細(井田文書)によれば、田一〇町六反余・畑五町二反余、家数三四、男七〇・女五五、うち下男二、馬二とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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