石野村(読み)いしのむら

日本歴史地名大系 「石野村」の解説

石野村
いしのむら

[現在地名]袋井市愛野あいの

山名やまな郡に所属。高部たかべ村の東、西流する原野谷はらのや川とさか川の合流点の南に位置する。南は山を越えて宝野ほうの新田・菩提ぼだい新田。法多山尊永そんえい寺がある。中世は山名庄のうち石野郷域に含まれた。天正一八年(一五九〇)一二月二八日の豊臣秀吉寺領寄付朱印状(尊永寺文書)によれば山名郡石野郷四八石が法多山領として安堵されている。文禄二年検地高目録では佐野さや郡内に石野村とみえ、高七一四石余、掛川城主山内一豊領。その後幕府領掛川藩預となっていたが、正保二年(一六四五)横須賀藩領となり(掛川預一万石郷村覚)、幕末に至る(袋井市史)

石野村
いしのむら

[現在地名]板柳町石野

東は五所川原堰を境に五幾形ごきがた村、西は三千石さんぜんごく堰、南は赤田あかだ村、北は野中のなか村に接する。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に一一六二・八石とあり、貞享元年(一六八四)の郷村帳には新田として同高が記される。同四年の検地帳には田方三〇町七反九畝二三歩、畑方二一町一反二畝一九歩、田畑屋敷合せて五一町九反二畝一二歩、村高四二三・九〇九石、百姓四三人とある。元和―寛永年間(一六一五―四四)から開発された三千石遣一四ヵ村の一つであったといわれる。元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は上とある(平山日記)。天保年間(一八三〇―四四)には藤崎ふじさき堰・三千石堰の水下になっている(津軽平野開拓史)

石野村
いしのむら

[現在地名]砥用町石野

東は柏川かしわがわ村、西は内山うちやま村・桑木野くわぎの村、南は四万丈しまんじよう(七五〇メートル)などの山々で早楠はやくす村と接し、北は緑川を挟んで峙原そばわら村・内園うちぞの村と対する。緑川に沿って東西に走る目丸めまる街道沿いに田畑が開け、緑川に沿う唯一かつ肥沃平地で、石野平野ともよばれる。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高二二一石六斗余、うち田方八三石一斗余・畠方一三八石四斗余。砥用手永に属し、「国誌」には、シトウノ(志道)原・戸ノ草・県ノ原・山瀬・秋伏などの小村を載せる。明治初年の「郡村誌」によると戸数四三、男一一六・女一二四、牛四七・馬三七、舟二で、大工職二があり、物産として菜種蚕豆・蘿蔔・竹・茶・生糸などが記される。

石野村
いしのむら

[現在地名]鹿角市十和田瀬田石とわだせたいし 石野

米代川が比内ひない・鹿角両地域の境界峡地に入る右岸に位置し、対岸は大欠おおかけ村・松山まつやま村。現下石野しもいしのから経石が出土し、廃寺跡の墓地中にマウンド遺跡がある。

寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高七石五升余(すべて蔵入地)で民戸一四軒。近世後期の花輪御官所村々郡分高書上帳にも蔵入地と記され、高二二石一斗余。集落西方の山麓に白根しらね鉱山(小真木こまき鉱山)があり、「邦内郷村志」に「堀子家数百戸、有山中渓谷中」とある。

石野村
いしのむら

[現在地名]植木町亀甲かめこう

吉松よしまつ村の西、北は今藤いまふじ村、南は味取みとり町に接し、もとは吉松村に含まれた。享保年間(一七一六―三六)の宣紀時代手鑑に村名がみえ、享保以前の分村が知られる。正院手永に属し、「国誌」には「太郎丸村平尾村今泉村末古閑村砥用村堀内村小トウシ村笠松村生部村五郎丸村等小村アリ」とある。宝暦一四年(一七六四)の地引合帳では本田二三町五反一畝余・本畑四〇町九反三畝余、新地など畑一町六反六畝であり、下ケ名には太郎丸・平尾・堀ノ内・小当寺・十別当・石野・笠松などがみえる。

石野村
いしのむら

[現在地名]黒部市天神新てんじんしん

北は牧野新まきのしん村、南は石田新町いしだあらまち村、西は石田村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五〇石、免四ツ四歩(三箇国高物成帳)。享保一三年(一七二八)黒瀬くろせ川の川崩れにより一二石余の引高があり、天保一一年(一八四〇)の草高三七石余(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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