石寺村(読み)いしでらむら

日本歴史地名大系 「石寺村」の解説

石寺村
いしでらむら

[現在地名]三股町長田ながた

樺山かばやま村・餅原もちばる村の東に位置し、鰐塚わにつか山地の山間部に源をもつ沖水おきみず川が村内を西流する。板谷いたや(板屋道)樺山村から当村を経て、村の東端に位置する鰐塚山南方矢立やたて峠を越えて飫肥藩北河内きたがわち(現北郷町)に至る。江戸時代は都城五口六外城の一つ梶山かじやま郷に含まれ、鹿児島藩都城島津家領。

中世にも石寺の地名が登場するが、当地は中世の梶山の地に含まれていた可能性がある。文保二年(一三一八)三月一五日と同月二三日の日付をもつ関東下知状并島津道義譲状案(樺山文書)によれば、同月一五日に島津道義(忠宗)は五男資久に「石寺嶋津」などで計三〇〇町を譲与しているが、この文書はのちの島津貞久による所領譲与(貞治二年四月一〇日「島津貞久譲状」島津家文書など)を背景とした南北朝期以降の作の可能性がある。南北朝末期、九州探題今川了俊に派遣された今川満範は、高城たかじよう(現高城町)を基盤に国人を組織化し島津氏と対抗したが、年未詳九月七日の今川満範書状(禰寝文書)によれば、樺山城攻めを行った際、野伏が一人も出なかったため、「石寺・河内」の山人を案内者として四〇〇人を差向け、満範自身は小山こやま(現高城町)に移っている。

布別府ぬのびよう牧野まきの之村(牧野村か)轟木とどろき政矢谷まさやだにの地名は「庄内地理志」や「宮崎県史蹟調査」に載る字地などから、当地に比定される。

石寺村
いしでらむら

[現在地名]安土町石寺

桑実寺くわのみじ村の南西に位置する。村域北半はきぬがさ山の南斜面、南半は平地となり、集落は両者の境、繖山南麓にある。東は川並かわなみ村・清水鼻しみずはな(現神崎郡五個荘町)。地内を中山道が通る。応仁―文明期(一四六七―八七)以降、繖山が守護六角氏の主城観音寺かんのんじ城として整備されると集落山手に領主屋敷が置かれ、室町時代末期に当地は守護所として城下町化する。なお、地名はかつて当地に石寺とよぶ寺院があったことに由来するとされるが、同寺については不詳。

応仁・文明の乱で六角氏宗家は西軍に属し、東軍方の京極勝秀・六角政尭連合勢と近江国内で角逐、文明元年八月二六日には「観音寺麓於石寺」において合戦となっている(同月二七日「山内政綱感状」古証文)。永正一六年(一五一九)には「くわんおん寺ふ本、いし寺一ゑん」などの旦那職が宗左衛門に売渡されている(同年二月七日「伊勢道者売券」輯古帖)

石寺村
いしでらむら

[現在地名]彦根市石寺町

下岡部しもおかべ村の北に位置。本村は琵琶湖岸の下石寺村で枝郷の上石寺村が荒神こうじん山西麓にある。地名はかつて当地に天台宗宝石寺(通称、石寺)が所在したことによる。建武元年(一三三四)一二月、雑訴決断所は愛知郡内にある七ヵ所の京都仁和寺領を同寺雑掌に付し、違乱を停止するよう近江国衙に命じているが(同月七日「雑訴決断所牒」東寺百合文書ほか)、そのなかに石寺が含まれている。明応九年(一五〇〇)一〇月には竹内門跡(京都曼殊院)領「近江国宝石寺号石寺」に対する違乱をとどめ、年貢諸公事以下を滞りなく門跡雑掌に納入するようにとの室町幕府奉行人奉書が「当所名主沙汰人中」に出されている(曼殊院文書)

石寺村
いしでらむら

[現在地名]美方町石寺

神水かんずい村の北東矢田やだ川の左岸に位置し、北は長板ながいた(現村岡町)伝承によると当村は享禄年中(一五二八―三二)神水村の井口氏・木村氏が移り開いた村といい、かつては神水村の支村であったという(七美郡誌稿)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「いし寺村」とみえ、当地には「ひろ井新三郎殿」ほかが住していた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では「石寺、かんすい村」とあり、神水村と合せて高一二〇石。

石寺村
いしでらむら

[現在地名]和束町大字石寺

和束川下流右岸に位置し、三方に山を負い和束川へ面する南方のみ開け、集落は多く山腹にある。村中を信楽しがらき街道が通る。地味について「京都府地誌」は「其色赤其質中等以下ニ居ル、茶及ヒ柑子ニ適ス、水利不便ニシテ時々旱ニ苦シム」と記す。

江戸時代、現和束町に含まれる諸村を和束郷と称し、全村が元和九年(一六二三)に将軍徳川秀忠の娘和子(東福門院)が皇子を産んだ祝として一万石加増された禁裏新御料である。

石寺村
いしでらむら

[現在地名]笠間市石寺

国見くにみ山の東麓にあり、東は大橋おおはし村、南は飯田いいだ村。中世は笠間氏の支配下にあり、村内の弥勒堂には笠間時朝が寄進した宝治元年(一二四七)四月二四日の墨書銘を有する木造弥勒菩薩立像(国指定重要文化財)がある。

江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高二六二・八五四石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて一九石余を打出す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報