石塔村(読み)いしどうむら

日本歴史地名大系 「石塔村」の解説

石塔村
いしどうむら

[現在地名]蒲生町石塔

平林ひらばやし村の西、布引ぬのびき丘陵の南西麓に位置し、北は尻無しなし(現八日市市)など。集落は丘陵地の裾に沿い東西に連なる。地名は集落東方にある石塔寺にちなむ。古くは小里こさと上郷かみごう(上村)二村であったという。中世、当地に拠った石塔商人は伊勢国から海産物などを運び、郡内所々で商い山越四本商人の一に数えられた。字黒国くろくには元応元年(一三一九)の「日吉社領注進記」にみえる坂本日吉社の季節内陣神供料所「蒲生上郡黒国保」の遺称地とされる。寛正二年(一四六一)一〇月一三日、足利義教鹿王ろくおう(現京都市右京区)に「石塔観音坊跡」などを寄せているが(「足利義教寄進状」鹿王院文書)応仁・文明の乱で同院領としての実態を失ったと思われ、文明七年(一四七五)五月一六日の室町幕府奉行人奉書(同文書)、同一〇年五月二七日の足利義政御教書(同文書)で返付してもとのように寺家の領知とすべき所領としてあげられている。応永二五年(一四一八)四月一六日、上郷・小里の両村神主や村沙汰人など五人は小里と寺家(延暦寺)に煩いをなした張本人として商人の常珍・左近三郎の二人を「在地寄衆」から追放している(「両村神主等連署請文案」今堀日吉神社文書)

石塔村
いしとうむら

[現在地名]下館市石塔

大谷おおや川左岸に位置し、東は谷部やべ村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏領となり、江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き下館藩領。元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高四四七・四五六石とあり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には鎮守鹿島明神、家数二〇、馬一五とある。

文久元年(一八六一)の乍恐以書付奉歎願候(二宮尊徳全集)に「天保年中より追々困窮仕、借方多分相嵩御百姓相続難相成」とあるように、村の困窮が著しくなり、嘉永五年(一八五二)から尊徳仕法が実施されたが、安政四年(一八五七)八月の大風と、翌五年の大谷川洪水で田畑が被害を受け、仕法金の返納が慶応年間(一八六五―六八)まで延びる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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