石坂新村(読み)いしさかしんむら

日本歴史地名大系 「石坂新村」の解説

石坂新村
いしさかしんむら

[現在地名]小矢部市石坂

埴生はにゆう村の南西礪波となみ山の東麓丘陵に立地。成立当初は石坂村ともいった。倶利伽羅くりから峠から礪波山中をほぼ東進してきた北陸街道は村内で北東方向に転じ、埴生村へ至る。また安居やつすい(現福野町)安居あんご寺に参詣する道(観音道)があり、当地は古くからかなりの交通量があったと思われる。村立ては一説に元和元年(一六一五)といい(「石坂村新村村立認可書」関野神社文書)、寛永一一年(一六三四)の礪波郡拾弐組村名附帳(礪波町村資料)に石坂新とみえ、水牧村三介組に属する。正保郷帳では埴生村・石坂組が併記されて高が記され、また別筆で高二六一石余、田方七町四反余・畑方一〇町の石坂村が記されている。

石坂新村
いしざかしんむら

[現在地名]高岡市伏木錦町ふしきにしきまち

射水(現小矢部川)の河口左岸、伏木村南方に位置。村名は古国府ふるこの字石坂いしざか地続きが新開されたことに由来すると考えられる。宝永五年(一七〇八)一宮いちのみや村で四三石余(免五ツ一歩)古府こふ村で二四石(免五ツ九歩)の新開が行われ、はつヶ開とよばれていた(「高免等書上帳」折橋家文書)。この新開は下八しもはつしん村次郎左衛門・孫兵衛、上牧野かみまきの村善四郎によるものであったが、正徳元年(一七一一)からは放生津ほうじようづ(現新湊市)武兵衛・弥兵衛・伊兵衛に作人が申付けられた(越中古文書)

石坂新村
いしさかしんむら

[現在地名]砺波市あずま

東保ひがしぼ村の東、芹谷野せりだにの段丘崖下にあり、東を六箇ろつか用水が北へ流れる。寛文三年(一六六三)の芹谷野用水開通により翌四年に東保村内を開発して村立てされた新村(出来新村・退転村記申帳)。同年の新開高五石余、同九年の新開高六石余、元禄四年(一六九一)の開添高一石余、同一二年の新開高一石余などが加わり、一方、享保一二年(一七二七)には射水いみず新田用水(六箇用水)江筋引高一石余があった。免は四ツ(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では高一八石余・免四ツ二歩。

石坂新村
いしさかしんむら

[現在地名]富山市石坂

石坂村の北、うしくび用水の東に位置し、東は四ッ屋よつや村。村名は、神通川の東遷後、石坂村の百姓によって開墾されたことに由来する(婦負郡志)婦負郡に属し、元禄一一年(一六九八)の富山藩領郷村高辻帳では、石坂村の枝村として北に二町離れた場所に六七石の新田としてみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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