矢部村(読み)やべむら

日本歴史地名大系 「矢部村」の解説

矢部村
やべむら

[現在地名]宇佐市下矢部しもやべ上矢部かみやべ

拝田はいた村の東方に位置する。東は正覚寺しようがくじ村、北は小向野こむくの村・宇佐村。村の北部を流れる寄藻よりも川の流域だけが低地で、後ろはほとんど山地である。豊前道(佐田往還)が通る。当村と別府びゆう村・拝田村(下拝田村)の境、駅館やつかん川右岸の野は恵美須えびすヶ原(戎ヶ原・蛭子ヶ原)とよばれた。対岸、中原なかはる村には平田ひらた井手の取水堰があり、恵美須ヶ原は同堰石こ積などに用いる芝の刈取場でもあった。江戸時代前期には東部の上矢部、西部の下矢部の二村に分立したが、その後も郷帳類では矢部村一村で高付されることもあった。下矢部には古墳時代の横穴が多く、牛房うしぼうに一〇基、百穴ひやくあなに五二基、屋敷やしきに一〇基あり、さかシには甕棺群もある。中世は向野むくの郷の内。大福寺重書案(末弘文書)によると、江島大福えしまだいふく寺住持中泉は応安八年(一三七五)六月一日向野郷内の「一所三反矢部椿」「一所五反内苗代矢部村内」などを弟子守泉に譲っている。応永九年(一四〇二)一二月永弘光世は「むくのゝかう矢部の村のうち大ふけのあけ」五反を矢部源勝に売渡している(「永弘光世田地去状案」永弘文書)

矢部村
やべむら

面積:八〇・四六平方キロ

八女郡の南東部、県の最南東端に位置する。北は星野ほしの村、西は黒木くろぎ町、南西は熊本県鹿本かもと鹿北かほく町、南部は同郡菊鹿きくか町、南東部は大分県日田郡中津江なかつえ村、北東部は同郡前津江まえつえ村と接する。北東部に御前ごぜん(権現岳、一二〇九メートル)釈迦しやか(一二三〇・八メートル)、東部に猿駆さるがけ(九六八メートル)、南部に三国みくに(九九三・八メートル)国見くにみ(一〇一八・一メートル)などがそびえ、村域の八五・三パーセントを森林が占める。

矢部村
やべむら

[現在地名]福岡町矢部

蓑島みのじま村・江尻えじり村の南、岸渡がんど川と山王さんのう川に挟まれた平坦地に立地。旧北陸街道(中田道)が東西に通る。中世の野辺やべ庄の遺称地とみられる。元和五年(一六一九)の家高新帳に矢部村とみえ役家数は四、大滝組に属した。その後、同帳に矢部の内として載る中城なかしろ(役家数五)・ひわう(同三)しも(同三)と正保三年(一六四六)に合併したと伝える(礪波郡町村資料)。そのため矢部四ヵ村ともいう。正保郷帳では高一千八石余、田方六四町七反余・畑方二町五反。

矢部村
やべむら

中世、河崎かわさき庄のうちにあった村。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に夜部山とみえ、おそらく安楽寺の造営材木などを供出するほぼ当村全域をさす広域呼称と思われ、南朝方から違乱をうけていた。また元中八年(一三九一)一二月九日の五条頼治申状案(五条家文書/史料纂集、以下断りのない限り同上)によれば、「矢部・津江両山」は肥後筑後豊後の三国境にある九州無双の要害であり、頼治はこの両山を拠点に北朝方と戦い、敵から攻撃を受けたことはなかったという。

矢部村
やべむら

[現在地名]戸塚区矢部町・鳥が丘とりがおか

東は吉田よしだ村、南は戸塚とづか宿、西は中田なかだ村、北は上矢部かみやべ村と接する。人家は多く南東の東海道沿いに並ぶ。柏尾かしお川が吉田村境を流れ、字池之谷いけのやとには溜井がある。小田原衆所領役帳に大草左近大夫「百三拾弐貫百八文 東郡下矢部」とあり、当時下矢部と称した。

近世は幕府直轄領。延宝四年(一六七六)の田二七町八反、畑二七町二反(横浜市史)

矢部村
やべむら

[現在地名]倉敷市矢部・庄新町しようしんまち

日差ひさし山の北東部に位置し、東は足守あしもり川を挟んで惣爪そうづめ(現岡山市)に対する。矢部橋を渡り宿しゆく(現都窪郡山手村)に抜ける山陽道が東西に通る。吉備津彦命温羅うら征伐のとき、命に味方した矢部山主命が居住していたことから村名がついたという(備中誌)。慶長五年(一六〇〇)より庭瀬藩戸川氏領と推定される(戸川記)。寛永八年(一六三一)の戸川氏への徳川家光朱印状写(宮田文書)では高五八四石余。天和―元禄初期の国絵図(池田家文庫)では幕府領

矢部村
やべむら

[現在地名]山武町矢部

現山武町の南東部に位置し、南は湯坂ゆさか(現成東町)。村内を作田さくだ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一九〇石。慶長九年(一六〇四)の成東領矢部之村検地帳(川島家文書)では田一九町八反余・畑五町二反余、名請人二八(うち屋敷持一九)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では成東上組に属し、旗本中根領。元禄一三年(一七〇〇)の下総結城藩領知目録に村名がみえ、高一一五石余、ほかに新畑三反余・松御林一ヵ所六町四反余。

矢部村
やべむら

[現在地名]太田市只上ただかり東新町ひがししんまち

只上村の西、金山かなやま丘陵の東北方に位置し、西は今泉いまいずみ村、南は若林わかばやし村。村内中央を矢場やば川が南流する。寛文郷帳によると館林藩領に属し、田二二石余・畑六三石余。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では、八四石分が旗本米津領などの二給。明和九年(一七七二)の村明細帳(須藤文書)によると、やはり旗本の二給。田畑屋敷合せて七町三反余、上田はなく、また田畑屋敷の質地値段および小作入上米(金)はそれぞれ一反につき中田で質入金一両二分から二両二分(入上米一俵半より二俵半)、下々畑で一分より二分(小作入上鐚二〇〇―四〇〇文)、屋敷質入は金四―五両となっていた。

矢部村
やべむら

[現在地名]田原本町大字矢部

飛鳥川西岸、現大字満田まんだ東北方に位置。慶長郷帳の村高は八七二・九九石で、五〇〇石が旗本秋元泰朝領、三七二・九九石が旗本松平正綱領。寛永一六年(一六三九)に松平氏領は郡山藩(郭住、本多勝行)領となる。秋元氏領(四九八・五三一石)は相模国甘縄藩(松平正綱)領となり、元禄一六年(一七〇三)領主の転封にしたがい上総国大多喜藩領として廃藩置県に及んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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