真野郷(読み)まのごう

日本歴史地名大系 「真野郷」の解説

真野郷
まのごう

郡北部にあり、南は大友おおとも郷。訓は「和名抄」高山寺本が「未乃」とするのは誤記で、東急本の訓「末乃」(マノ)が本来であろう。表記は真野のみでほかの例はみられない。斉衡三年(八五六)一一月一九日の近江国大国郷墾田売券(吉田文書)に滋賀郡真野郷戸主従六位下大友曰佐豊次とあるが、真野村・真野としては早くからみえる。天平宝字六年(七六二)三月八日の造石山寺所食物用帳(正倉院文書)の「於真野白土土工」、同年閏一二月二九日の造石山院所解(同文書)の「白土取賀郡真野村」などとあり、仏像彩色用の白土を採取していたことが知られる。

真野郷
まのごう

「和名抄」所載の郷。近江国滋賀郡・陸奥国行方郡・讃岐国那珂郡などの同名郷の訓注「末乃」「万乃」に従う。郷域は「大日本地名辞書」「日本地理志料」は青野あおのを中心とする現大垣市青墓あおはか地区にあてるが、「濃飛両国通史」「岐阜県史」は青野原西部の現垂井たるい府中ふちゆうとしている。両説ともに決定的な論拠はないが、郷の配列、なかでも駅家うまや郷を青墓・赤坂あかさか(現大垣市)地区に比定することが一般的であることから、垂井町府中説に妥当性があろう。府中にあてるとすれば、当郷は美濃国府推定地を郷域内にもつことになる。

真野郷
まのごう

「和名抄」東急本には「万乃」と訓を付す。もとは神野かんの郷と称していたが、平安初期に嵯峨天皇の諱神野に触れるので改めたという。郷内に弘法大師が修築した満濃まんのう池がある。中世には近江園城おんじよう寺に寄進された真野庄や真野勅旨がみえる。

真野郷
まのごう

「和名抄」所載の郷で、高山寺本に「末乃」と訓を付す。明治二二年(一八八九)七村が合併して真野村(現鹿島町)、一二村が合併して上真野村(現同上)が成立した。真野川、国指定史跡真野古墳群がある。「万葉集」巻三「笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌三首」のうちに「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを」がある。

真野郷
まのごう

「和名抄」高山寺本・東急本・刊本に「真野」と記され、ともに訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今其名ヲ失ス、思フニ今ノ宇留野村ノ辺ナリ、真野転ジテ宇留野トナルモノ其故ヲ知ラズト云ヘドモ、コノ地辺必一郷ヲ置クベキノ地アレバナリ」とあり、現那珂郡大宮町宇留野うるのに比定する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報